鎖国をしていた江戸時代には、外国へ行くことはあり得なかった。しかし、海に囲まれていた日本では、嵐にあったり、潮に流されたりして、他国に漂着する舟もあった。その中で、日本に戻ることが出来た人の話による漂流体験記が残されている。
国立天文台の貴重和漢書の中には、天文暦学以外の和書も含まれており、『環海異聞』、『大日本土佐国漁師漂流記』、『志州船頭小平次外国江舟吹流ル由来記』と3本、漂流記がある。漂流記の中で、大槻玄沢編『環海異聞』は代表的な本である。この『環海異聞』は異本もあり、これがどの系統に属するかはわからないが、図は彩色されており、文章の文字も美しい。首巻の初めに「環海異聞謄写附録」として、この写本のいきさつが書かれており、「天保十年 写筆 守拙老人」とある。
『環海異聞』は漂流者津太夫らが帰国したときに編者大槻玄沢の質問に答えた内容を纏めた書である。文化四年(1807)完成し、藩主に献上された。
仙台藩の水主津太夫ら16人は寛政五年(1793)、江戸に向かう途中で嵐にあい、何か月も海上を漂流した後、ロシア領のアリューシャン列島内の島へ流れ着いた。ロシアに8年ほど滞在した後、シベリアから首都ペテルブルグに行き、国王に謁見。その際帰国を願い出た津太夫ら4名はロシアを出航、西回りの航路を経て文化元年(1804)長崎へ入港、期せずして世界一周を果たすこととなった。漂流したいきさつ、シベリア旅行記、首府滞在記など、当時の興味深い話が書かれている。
ここでは津太夫らがロシアから長崎に戻るまでの航路図と、プラネタリウムと考えられる「天地球を蔵むる所」の絵の部分とを紹介する。
中浜万次郎 (ジョン万次郎) は天保十二年(1841)、近海の漁に出ていて暴風雨にあい遭難、鳥島に漂着し、アメリカ捕鯨船に救助された。この記録は嘉永五年(1852)秋、彼が漁師仲間の伝蔵親子と土佐に帰国した時の聞き書きである。助けられた後、万次郎はアメリカで教育を受け、日本に戻った後、藩で英語を教えた。教え子のなかには後藤象二郎や岩崎弥太郎などもいた。その後明治初期、開成学校中博士となった。
志州 (現三重県の一部) の船頭の小平次らが宝暦七年(1757)大阪から伊勢へ帰る途中、大風雨にあい、漂流した。台湾へ漂着し、後、宝暦九年に長崎を経て帰国した際、鳥羽役所向井金右衛門に報告した話。