2023年6月に国の重要文化財に指定された『星学手簡』の解説漫画および解説動画を公開する運びとなった。
今回は、漫画家の松浦はこさんと、科学者系Virtual YouTuber(VTuber)の星見まどかさんに解説をお願いした。
執筆者:漫画家・松浦はこ
松浦はこさんは、教育系企業の学習漫画などを執筆されている。
ご本人の趣味としての暦擬人化漫画はX(Twitter)などで定期的に掲載されており、二十四節気などの説明が丁寧である。
各種SNSにおいて「松浦はこ」名で、天文学のトピックスに言及することもある。
朝日新聞出版『Nemuki+』にて暦を擬人化した漫画『こよみごのみ』を連載(2024年12月〜)するなど、精力的に活躍されている。
解説者:科学者系VTuber・星見まどか
星見まどかさんは、惑星科学分野を中心として、天文学一般のアウトリーチ活動を行っているVTuberである。
YouTubeにおける通常の配信では、天文の魅力を視聴者に届けることを目的として活動している。
また、天文に関連する趣味のTRPGゲーム配信も積極的に行っており、天文学に関心のない人々が興味を持つきっかけ作りもしている。
国立天文台三鷹キャンパスの歴史館の一階に展示された国の重要文化財『星学手簡』の詳細である。
2023年6月、国立天文台所蔵の『星学手簡』が国の重要文化財に指定された。本展示では、同手簡や関連する書物・文献の展示を行った。
日本は1873年からグレゴリオ暦(太陽暦)を採用したが、それ以前は旧暦を用いていた。厳密には旧暦は天保暦を指すが、現在では、改暦以前の和暦全般やその後の天保暦に倣った太陰太陽暦もひとまとめに、そう呼ばれることが多い。
日本の暦の歴史は、始まりが判然としない。『日本書紀』巻19には、欽明天皇十四年(553)六月、百済に医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本の送付を依頼する記述がある。
江戸時代より前は、大陸よりもたらされた暦を使用していた。しかし、冲方丁の小説『天地明察』の主人公にもなった渋川春海による「貞享暦」の登場により、日本は独自の暦の歴史を歩み始めることとなった。
「貞享暦」は貞享二年から使用された暦で、中国の「授時暦」に倣ってはいるものの、日本と中国の経度差や冬至と近日点のずれを考慮した初めての日本独自の暦である。この後、「米将軍」で知られる徳川吉宗は、西洋天文学を考慮した改暦に熱意を燃やすが、存命のうちにかなうことはなかった。
その後、安倍(土御門)泰邦らによる「宝暦暦」への改暦が見られるが、基本となる理論は「貞享暦」と同じであり、むしろ間違った補正値が加えられるなどした。さらに宝暦十三年九月の日食を暦に記載しないという失態も犯した。「修正宝暦暦」への改暦も行われるが、根本的な改善がなされることはなかった。
今回展示した『星学手簡』では、この後の「寛政暦」へと至る経緯やその後の流れを垣間見ることができる。『星学手簡』は主に、同暦を編纂した高橋至時と間重富の間で取り交わされた書状をまとめたものとなっている。至時の弟子となった、精密な日本地図で有名な伊能忠敬についても触れられているが、ぜひ第18回の展示も参照いただきたい。
「寛政暦」後は、至時の次男である渋川景佑らにより編纂された「天保暦」を用いることとなり、明治五年十二月の太陽暦への改暦まで使用される。
『星学手簡』は景佑によりまとめられたと言われており、景佑は「天保暦」の編纂にとどまらず、多大な功績を残している。
図1:『星学手簡(上)』寛政八年五月八日付書状
図2:『暦象考成 後編』乾隆七年(1742)再訂 写本
図3:『星学手簡(上)』重富より至時への観測機器に関する書状
図4:『星学手簡(中)』重富より至時への書状
「宝暦暦」における日食の記載漏れという失態が見られる中、地方では有能な暦算家が台頭していた。そのうちの一人が、麻田剛立である。至時と重富は剛立の元で共に学んだ同学である。剛立と二人とのやり取りは、至時(図1では「高橋作左衛門」)が幕府天文方に抜擢され、新しい暦の編纂を始めてからも見ることができる。
至時は西洋天文学、特にケプラーの楕円運動を取り入れた中国の暦学書である『暦象考成 後編』を理解するほど天文学理論に長けており、幕府から改暦の任を受けた。
彼は先任の天文方である吉田秀升、山路徳風と共に上京、土御門家と改暦の相談を行うとともに、足立信頭らと西三条台の改暦所(京都)で観測に従事した。
重富は大阪の商人の出であり天文方になることはできなかったが、観測や機器製作技術の高さと財力で、至時と共に改暦を推し進めることとなる。
『星学手簡』では、重富から至時への技術的な報告や相談、私信を見ることができる。
図5:『星学手簡(上)』寛政九年六月十五日付高橋至時宛間重富書状
図6:『星学手簡(上)』寛政九年九月十八日付間重富宛高橋至時書状
図7:『星学手簡(上)』寛政九年五月八日付高橋至時宛間重富書状
至時は寛政九年には『暦象考成』を元に『暦法新書』を編纂、土御門泰栄の手を経て上奏され、十月十九日に改暦が宣下された。これが「寛政暦」(寛政丁巳暦)であり、翌十年より用いられることになる。ここに至り、西洋天文学を取り込んだ改暦という徳川吉宗の理想が、暦象考成経由という間接的な形ながら実現されることになった。夜明と日暮の定義も、このときに定められたものである。
しかし残念なことに、記念すべき寛政九年の書状は左の三通しか知られていない。
「寛政暦」改暦の功労者は、言うまでもなく至時と重富であるのだが、新暦法に精通しているとは言い難い世襲の天文方である吉田・山路がより多くの報奨を得るに至った。また、家格を重んじる二人と旧弊を重んずる土御門家との関係を維持しながら新規理論を暦に反映させようとした至時らの苦心は、観測以外にも並々ならぬものであったようだ。
至時の苦心を察しながらも、厚い友情をもって短慮を戒めた重富の書状には、その間の実情が詳らかに示されている。また、当時の彼らの考えをうかがうことができる貴重なものでもある。
なお、ここでは、大変長い書状の1ページ目だけをそれぞれ示している。今も昔も、新しいものの導入には苦労がつきものであるということが理解できる。単調な業務連絡だけではなく、互いの心情についてもうかがえるところも『星学手簡』の興味深い点である。
図8:『暦象考成 後編』より楕円軌道の図
図9:"Astronomie" Joseph Jerome Le Francais de Lalande 著 第2版 1771年 表紙
図10:"Astronomie" Joseph Jerome Le Francais de Lalande 著 第2版 1771年 内装
「寛政暦」は西洋天文学を採り入れた『暦象考成 後編』をもとにした暦法であったが、日月食の予測精度は十分に観測を満足できるものではなかった。
また、『暦象考成 後編』では太陽と月の楕円運動を扱っているが、惑星の運動については書かれておらず、『暦象考成 上編』に見られるような周転円の組み合わせを使わざるを得なかった。
至時は改暦の大仕事を成し遂げたのちも決して満足せず、観測や研究を重ね、これらの問題の改善に取り組む日々を過ごしていた。
至時は享和三年に、最新の西洋天文学が記載された『ラランデ暦書(フランスの "Astronomie" のオランダ語訳)』を17日間だけ借りて(後に幕府が購入)読み、直接西洋天文学に触れ、その内容に感嘆し寝食を忘れて、抄訳に没頭したと言われている。しかし無理がたたったためか、早世した。
『ラランデ暦書』の翻訳には高橋至時のほかに間重富、高橋景保、渋川景佑らが関わっている。
図11:『新修五星法』 高橋至時著 享和三年 稿本
図12:『新巧暦書』 渋川景佑、足立信頭他編 天保七年 写本
図13:『新法暦書(天保暦書)』 渋川景佑、足立信頭編 天保十三年 写本
図14:『星学手簡(上)』 明時館図書印(左上)東京天文台印(右頁)
至時は惑星にも楕円運動を採り入れるべく研究を重ね、『新修五星法』を遺すこととなる。『新修五星法』は渋川家を継いだ渋川景佑により後年完成し、『ラランデ暦書』に基づく『新巧暦書』と共に幕府に献上されている。
幕府から『新巧暦書』による改暦の命が下ると、景佑らは『新法暦書』9冊を編纂、土御門晴親による校閲を経て、改暦が宣言された。
日本最後の太陰太陽暦法である「天保暦」の誕生である。
『星学手簡』は幕末まで渋川家に所蔵されていたが、明治前期に科学思想史研究家の狩野亨吉の手に渡り、のちに東京天文台(現、国立天文台)に譲渡される。
現在はもちろん、グレゴリオ暦(太陽暦)に基づき、日付は決定されている。一方で、旧暦に相当する日付で、伝統的七夕や中秋など、季節の行事が決められることもある。
現在も日常に残る旧暦。日本で初めて西洋天文学に基づき、より正確な暦を日本人が独自に編集した努力の記録を、ぜひご覧いただきたい。
参考文献:
日本洋学史の研究(創元学術双書[1],5)/有坂隆道編.創元社,1968-1979
2023年10月28日より配布している第61回常設展示のパンフレットはこちらからご覧いただけます。
同パンフレットの正誤表はこちらからご覧いただけます。