錦絵とは江戸中期から明治まで続いた多色刷り版画を指し、その美しさから、錦絵といわれるようになった。天文現象を扱う錦絵は珍しいが、明治前・中期における天文・気象の現象を描いた錦絵集が国立天文台に所蔵されている。この時期、日本で日食が続いて見られたこと、「1882年の大彗星」といわれ世界中で記録された彗星が見られたことから、これらの錦絵は作られたのだろう。絵の中には、これらの現象に当時の人々が驚いている様が描かれている。ここで紹介する図の他に、竜巻や
斎藤文庫の寄贈者である斎藤国治氏によると、この錦絵は明治20年(1887)8月19日の日食が東京でどのように見えるかを予想して描いたものであるという。
明治20年(1887)8月19日の皆既食を事前に想像して描いた図で、天明六年(1786)以来の皆既食としている。米国より来日したビートッド氏 (David Peck Todd)、寺尾氏 (東京天文台初代台長の寺尾寿。当時は帝国大学理科大学教授) ら研究者が実測のために日光、新潟、白河の方へ出張した。皆既食になって蒼天五色に変じ暗黒色となれば、人の顔は青白くなり、草花が萎れる等々一生に一度の見ものになるだろうと記されている。
金環食を事前に想像して明治16年(1883)10月20日に描かれた図である。今を去ること四十余年前の天保十年(1839)八月朔日金環食を見て、ある老人はこれを豊年の兆しと語ったが、今年も豊作であった。東京では太陽が三日月のように見えるが、
明治15年(1882)9月27日の朝方4時30分頃、東の空に現れ、尾の長さは1丈3-4尺ほどもあった。ある人は豊年の兆しであると述べ、そのため多くの人が拝んだとある。「1882年の大彗星」といわれた彗星。下の方には「はやくおがめおがめ これがほんのおがめはちもくということだ」とある。
当九月下旬よりして、東の方にあらわれたる彗星は、十七度にわたり高度は八度三十一分、方向は北より東へ百五度五十九分にて実に近代未曾有 の大星なり。そもそも彗星は行星の一種にて其数六百有余あり。其形ほうきに似たれども、外の諸星に異なる事なく、只軌道をめぐるにきまりなきが故に不意にあらわるる事あれ共、吉凶の前兆、豊年の星などとは実に無学の僻説 にてさらに怪しむべき事に非されば、聊 か愚人 の迷 を解かんと爰 に図す(翻刻文 これは、「1882年の大彗星」のことである。)
こちらも「1882年の大彗星」を描いた錦絵。上段で「大彗星が9月27日の明け方に現れ、幅五尺余長さ五間余の尾を引いていた。しだいに南に上っていき、夜が明けるころには見えなくなった」と説明している一方で、下段では彗星が落ちた穴を探しにでかけ、墨で書かれた穴を熱心にのぞき込む人の絵が描かれている。同じく墨で書かれたいたずらに驚く人々の「怖いもの見たさ」に通じるものがあるということだろうか。