高野長英 (1804-1850) は医者、蘭学者で、シーボルトの鳴滝塾で学び、後、蛮社の獄で入牢したが、脱獄し転々とした。
内田五観が開いていた
この問題は安島直円が編集したものを日下誠が、次にその門下の内田が解き、さらに同じ問題をまた、その門人が解いている。この問題は八百二十五寸を一辺とした正三角形の中にすべてが整数値になるように次々と斜線を描く、その描き方を問う問題である。
明治三年(1870)八月、暦のみならず広く星学研究を目指すべく天文暦道局は星學局へと改称、内田はその都督となった。内田五観の他に最後の幕府天文方であった渋川敬典など9人の履歴書が『拝命之記』として残されている。
これは、長崎よりシャム (現在のタイ王国) にいたる航海路推算で、球面三角法によって計算した、次の港までの方位角及び距離が書かれている。また図解もある。天保甲午(五年(1834))のあとがきがある。図を挟んで、故観斉 (内田五観) とある事から、内田五観の書を書き写したと考えられる。
天文、算學を学んだ佐倉藩士の高橋卯之助も同じ表題で書いているが、こちらは平面三角法によって計算した、次の港までの方位角及び距離が書かれている。