暦Wiki
6. 明治維新と太陽暦†
明治維新の混乱†
- 明治維新の混乱の中、編暦担当部署も二転三転を繰り返すことになります。
- 明治元年(1868)にはふたたび土御門家が編暦を担うことになりますが、まもなく晴雄は死去、幼い和丸が引き継ぐことになります。
- 明治三年(1870)には大学に天文暦道局が設置、大学廃止などを経て星学局となります。
- 土御門和丸らは天文暦道御用掛となりますが、本局は東京に移転して土御門家は出張所扱いとなり、これも廃止されて十二月には土御門和丸は御用を免じられます。これにより、長く続いた土御門家と暦の関係は途絶えることになります。
- このころ、内田五観が星学局督務となり、頭角を現します。
- さらに明治四年(1871)七月に文部省、さらに幾多の変遷を経て、明治9年(1876)には内務省へと移ります。
- この混乱は天文台建設をめぐる海軍省・内務省・文部省の乱立時代を経て、明治21年の東京天文台設立により収拾されます。
太陽暦の採用†
- 太陽暦については、江戸時代にも少しずつ紹介され、蘭学者の中にはオランダ正月を祝うものもいたそうです。
- 幕末には和暦と西暦の照合も必要となり、萬国普通暦なども作られていました。
- 明治五年(1872)十一月九日 改暦の布告 (国立国会図書館
)
- 明治五年十二月三日を明治6年1月1日とし、太陽暦の採用に踏み切りました。
- 以後、太陽暦は新暦、天保暦は旧暦と呼ばれることになります。
- 太陽暦の利便性
- 太陰太陽暦は2-3年に1回うるう月を入れなければならず、その前後で季節と食い違いができます。また、うるう月の入り方も複雑です。
- 太陽暦のほうが季節とのズレが少なく、うるう年のルールも単純です。
- 諸外国と同じ暦の方が交際上も便利、時代が変ったことを印象付け、西洋に追いつこうという意図からも合理的といえます。
- 時刻法も不定時法は不便です。
- 中下段に記載された暦注は迷信に過ぎません。
- 突然の改暦
- いかに改暦が合理的といえども、わずか20日後に1000年以上も続いた太陰太陽暦をやめようというのは無謀な話です。
- それまでにもさまざまな人物が改暦を唱えておりましたが、暦は社会に大きく影響を与えるものであり、なかなか実現には至りませんでした。
- それでもなお改暦を断行した理由は経費削減にあると大隈伯昔日譚に記されています。そのままでは明治6年にうるう月があり、月給制を採用した新政府は1か月余計に給料を出さねばならないはずでしたが、太陽暦を採用することでその1か月、さらに2日間だけの12月もあわせて合計2か月分の給料を節約できたことになります。
- 改暦の後始末
- こうして太陽暦改暦は断行されましたが、啓蒙にはなおしばらくの時間を要し、明治42年暦まで旧暦も併記し続けられることになります。
- 明治6年の祝祭日は暫定とされ、後日確定することになりました。
- 弘暦者の取り扱い
- 当時は弘暦者が暦の販売を担っており、布告が出された時にも既に太陰太陽暦による正式な明治六年暦が販売されておりました。この点からも、いかに突然の改暦であったかがうかがえます。
- さらに太陽暦による暦を急いで頒布するため、許可を得れば誰でも略暦を刊行できることになり、弘暦者は大損害を被ることになります。
- このため、明治16年暦で神宮司庁が頒暦するようになるまで、1枚刷りの略暦を除く頒暦の独占権を弘暦者に与えることになりました。
- うるう年の挿入方法については議論の余地がありましたが、明治31年勅令第90号によりグレゴリオ暦と同じ方式がとられることが決まりました。
関連ページ†