長く鎖国を続けてきた江戸時代、西洋天文学は中国経由の書物により伝えられていた。江戸時代後期になり、一部の学問書は直接西洋から長崎に入り、手にすることができるようになった。暦書を編纂する幕府天文方では、渋川景佑を中心に『ラランデ暦書』の翻訳がなされ、天保七年に『新巧暦書』として纏められた。また、他の天文方、山路諧孝によって、オランダ人ペイポの天文書が翻訳され、天保八年に『西暦新編』として発表され、それまで使われていた寛政暦の数値や観測の比較に使われた。こうして『新巧暦書』を中心に西洋天文学を採り入れた天保暦法が作られた。
この本は、オランダ人の献上品である「オーラリーの器械」を調べ、図解や蘭書の数値とのつきあわせを行なうとともに、天球儀の図やそこに記載された十二宮や星座の名称などについても解説したものである。市野茂喬の印章あり。市野茂喬は生没年未詳、優れた和算家であり、天文方高橋至時のもとで寛政の改暦に関わり、伊能忠敬の全国測量にも参加したことがある。
天保三年四月五日の水星日面経過の間重新の観測記録、浦野元周の序文などから、天保三年に書かれたものと考えられる。
渋川景佑による翻訳の覚え書き張。西洋人名のヨミと漢訳や、蘭語と日本語の対照表などからなる。
蘭人ペイポ・ステーンストラの著書 "Grondbeginsels der Sterrekunde" 2冊 (1771, 1772) の一部を翻訳・編纂したものである。
いわゆる『ラランデ暦書』 "Astronomia of Sterrekunde" 5冊を翻訳・編纂した暦書である。