暦Wiki
4. 高橋至時と寛政暦†
地方暦算家の台頭†
- 宝暦暦が宝暦十三年の日食予報に失敗する一方で、土佐の川谷貞六、薩摩の磯永孫四郎、京都の西村遠里、豊後の綾部正庵ら各地の暦算家がその予報に成功していました。
- 磯永孫四郎は宝暦改暦に参加、その後薩摩藩の編暦を担当しました。西村遠里は西川正休失脚後、宝暦改暦で土御門家に協力しています。
- 綾部正庵は、後に脱藩して大阪に移り住み、麻田剛立の名で知られるようになった人物です。剛立は観測を重視し、多くの機器を考案して観測を行う一方、暦象考成上編・下編・後編の研究に取り組み、多くの優秀な弟子を輩出、麻田流天文学の名声は天下に知れ渡ることになりました。
- 幕府としても、寛政四年(1792)には天文方の山路徳風に『崇禎暦書』による暦を試作させるなど、西洋天文学に基づく改暦を目指していました。
- しかし、暦象考成後編にあるようなケプラーの楕円運動を理解できるものは天文方にはおりませんでした。
- そこで、麻田流天文学派の中でもとりわけ優秀であった高橋至時・間重富に白羽の矢が立てられることになります。
寛政の改暦†
- 至時は寛政七年(1795)三月に出府を命じられると、四月には測量御用手伝、十一月には天文方に抜擢され、翌八年には改暦御用を任じられることになります。
- 早速、先任の天文方である吉田秀升、山路徳風と共に上京、土御門家と改暦の相談を行うとともに、足立信頭らと西三条台の改暦所で観測に従事しました。
- 重富は商人の出であり天文方にはなれませんでしたが、観測や機器製作技術の高さと財力で至時と共に改暦を推し進めました。
- この2人のやりとりは星学手簡として残され、天文暦学にかける思いや友情を今に伝えています。
- 寛政暦(寛政丁巳暦)の誕生
- 至時は寛政九年(1797)には暦象考成を元に暦法新書を編纂、土御門泰栄の手を経て上奏され、十月十九日に改暦が宣下されます。
- これが寛政暦=寛政丁巳暦であり、翌十年(1798)より用いられることになりました。
- ここに至り、西洋天文学を取り込んだ改暦という吉宗の理想が、暦象考成経由という間接的な形ながら実現されたことになります。
- 夜明と日暮の定義もこのときに定められたものです。
- こうして完成した寛政暦も至時にとってはまだまだ不満の残るものでした。
- そんな折至時が手にしたのがいわゆるラランデ暦書です。
- ラランデ暦書とはフランスの天文学者J.J. de Lalandeの著書"Astronomie" 第2版を、A.B.Strabbeがオランダ語訳した"Astronomia of Sterrekunde"のことで、当時最新の天文学をわかりやすくまとめた本です。
- 享和三年(1803)、これを目にした至時はその精密な理論に感銘を受け、それほどオランダ語が得意でなかったにもかかわらず、わずか十数日の借用期間の間にラランデ暦書管見第1巻を著しました。
- 至時は幕府にラランデ暦書を購入してもらい寝る間も食事をする間も惜しんで研究に没頭しますが、それがたたってか翌四年正月41歳の若さで亡くなってしまいます。
寛政暦・天保暦時代の観測機器†
関連ページ†
Last-modified: 2023-10-11 (水) 15:25:52