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貴重資料展示室

第44回常設展示:2011年4月1日〜2012年3月31日
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暦と陰陽師

律令時代、日本には陰陽寮(おんようりょう)があり、陰陽頭(おんようのかみ)を筆頭に、天文現象の監視と報告、暦の製作、報時、卜占(ぼくせん)などの業務を担っていた。陰陽師は本来、陰陽寮において占筮(せんぜい)などを職務とする役職だったが、安倍晴明(あべのせいめい) (921-1005) の頃には加持祈祷も行なう呪術師として貴族階級に強い影響をもたらすようになった。

また、このころから天文道・暦道は安倍家 (土御門(つちみかど)家) と賀茂家 (幸徳井家) の世襲となり、陰陽頭も両家に独占される状況が明治まで続いた。ただし、貞享の改暦以降は渋川春海(しぶかわはるみ)を初代とする幕府天文方が実際の暦を作るようになっている。

安倍晴明物語天文巻(あべのせいめいものがたりてんもんのまき)』 刊本1冊

安倍晴明物語天文巻1 安倍晴明物語天文巻2 (番号:2、マイクロNo.106)

著者名が明記されていないが、本文から浅井了意(あさいりょうい) (1612-1691) 作とされる仮名草紙と推定できる。安倍晴明が超人的な呪術を操るという伝説はすでに平安時代末期の『今昔物語』などに現れており、『安倍晴明物語』はそれらを採りこんだ内容となっている。ただし、この『天文巻』は天文(気象)現象の運気や吉凶など非科学的な占いに属するもので、安倍晴明はまったく出てこない。

簠簋(ほき)』 刊本1冊

簠簋 (番号:470, 471、マイクロNo.71)

江戸時代の暦注 (暦に掲載される占い) 解説書の多くは本書を参照して書かれている。安倍晴明が唐から持ち帰った本と書かれているが、晴明が唐に渡ったという記録は存在しない。

宝暦暦法新書(ほうりゃくれきほうしんしょ)』 安倍泰邦著 宝暦四年(1754) 未製本

宝暦暦法新書1 宝暦暦法新書2 (番号:468、マイクロNo.38, 39)

安倍泰邦(やすくに) (1711-1784) は中国暦法の研究に励み、編暦の主導権を幕府天文方から奪回して、貞享暦から宝暦暦への改暦に成功した。しかしほとんど貞享暦と変わらないうえ、わずかな観測で小手先に修正を加えたため、宝暦十三年(1763)には早くも日食の予報を外しており、翌年には幕府が山路主住、佐々木文次郎を天文方に任じて、改暦調査にあたらせた。

『宝暦五年乙亥 気朔暦(きさくれき)』 安倍泰邦撰 刊本1冊

宝暦五年気朔暦1 宝暦五年気朔暦2 宝暦五年気朔暦3 (番号:9027、マイクロNo.4001)

泰邦の父である安倍泰福(やすとみ) (1655-1717) が制定に協力した貞享暦では、暦注を陰陽寮が、天文学的な暦を天文方が担当していた。宝暦暦では担当こそ変わらぬものの、両方の実権を陰陽寮側が握った。なお、気朔暦とは具注暦のことである。

安政戊午仲秋聞書(あんせいぼごちゅうしゅうききがき)安倍晴雄(あべはれたけ)ほか 写本1冊

安政戊午仲秋聞書 ドナティ彗星 (番号:5、マイクロNo.41)

安倍晴雄 (1827-1869) は事実上最後の陰陽頭である。安政五年(1858)八月に世界中で観測されたドナティ彗星 (Comet Donati) を目撃して「右 酉刻以後見 西北光芒 東指長一丈余 (酉の刻に西北の方向にぼうっと光って東の方をさして尾の長さは一丈余に見えた)」と観察記録を残したが、陰陽頭としての立場から天変や疫病の可能性についても一言書き添えている。

右の図は1888年にドイツで出版された"Bilder-Atlas der Sternenwelt"に掲載されたドナティ彗星の絵である。

暦道一條雑記(れきどういちじょうざっき)』 写本1冊

暦道一條雑記

明治維新前後の暦道に関する文書類の写本。最初の頁には、安倍晴雄が京の貴族たちに対して、維新を契機に自分とその部下たちを測量推歩 (天文観測をして暦を作る) の職務に就かせるよう訴えた申請の写しがある。晴雄は新政府から編暦を許可されたものの明治二年(1869)に没した。まだ幼かった子の和丸(かずまる)が跡を継いだが、翌明治三年(1870)には編暦業務が別組織に移り、陰陽師の家系と編暦との関係はここで終わりを告げた。

参考文献:
『陰陽道の発見』 山下克明著 日本放送出版協会
『暦と時の事典』 内田正男著 雄山閣
『日本の暦』 渡邊敏夫著 雄山閣

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