暦Wiki
1. 暦の伝来から宣明暦まで†
暦の伝来†
- わが国に暦が伝来したのは6世紀から7世紀はじめごろといわれます。しかし、いずれも記録は断片的で、暦の伝来や使用開始については諸説があります。
- 欽明天皇十四年(553)六月、百済に医博士・易博士・暦博士等の交代や暦本の送付を依頼 (日本書紀巻19 国立国会図書館 )
- 日本書紀に暦の文字が初めて登場。
- 欽明天皇十五年二月、求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日 (日本書紀巻19 国立国会図書館 )
- 推古天皇十年(602)十月、百済の僧観勒が来日、暦本などを献上。陽胡玉陳が暦法を、大友村主高聡が天文・遁甲を習う (日本書紀巻22 国立国会図書館 )
- 推古天皇十二年正月朔(604年2月6日)、始用暦日 (国文学研究資料館「政事要略」 )
- 持統天皇元年(687)正月、頒暦諸司 (国文学研究資料館「政事要略」 )
- 持統天皇四年十一月甲申(十一日、690年12月17日)、勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦を行う (日本書紀巻30 国立国会図書館 )
- 内田*1によれば、この併用期間は月朔には基本的に元嘉暦を、持統天皇五年から始まった食の予報には儀鳳暦を用いたと考えられます。
- 元嘉暦は平朔、儀鳳暦は定朔という違いがあり、しばらく両者を比べる必要があったのでしょう。
- なお、文武元年(697)八月朔=文武天皇の即位は日本書紀と続日本紀の境目にあたりますが、日本書紀では乙丑と元嘉暦で (国立国会図書館 )、続日本紀では甲子と儀鳳暦で書かれています (国立国会図書館 )。この通りに年の途中で暦が変更されたかどうかは不明ですが、以後は儀鳳暦のみが使われるようになりました。
- 古墳時代の刀や鏡に日付の刻まれたものがあります。
編暦体制の確立†
- 大化の改新を経て律令国家へと変貌する動きの中で中務省に陰陽寮が成立します。
- 成立時期ははっきりしませんが、日本書紀巻29 天武天皇四年(675)春正月に陰陽寮という名前が登場し、庚戌(五日、675年2月5日)には占星台が設置されます (国立国会図書館 )。
- 令義解によれば、陰陽頭を筆頭に、陰陽師、陰陽博士、陰陽生、暦博士、暦生、天文博士、天文生、漏刻博士、守辰丁などが置かれました (国立国会図書館 )。
- これにより、陰陽頭のもとで暦博士が暦を編纂するという体制が整いました。暦博士は暦生の指導にもあたります。
- 「天文」といっても現在のような天文学ではなく、天文現象・気象現象から天の意思を読み取り、吉凶を判断するといったものです。
- 官位については、陰陽頭は従五位下(国立国会図書館 )、陰陽博士や天文博士は正七位下、暦博士は従七位上(国立国会図書館 )、漏刻博士は従七位下(国立国会図書館 )とされました。
- 陰陽寮で作られた暦は毎年十一月朔日に天皇へ奏進され=御暦の奏、その後各地に頒布されます (国立国会図書館 )。
- 「漆紙文書」の形で残された暦が、陸奥の多賀城跡をはじめ各地で見つかっています (宮城県 )。
- 「漆紙文書」とは、漆容器のふたとして再利用された古文書です。漆が浸み込んだおかげで腐敗を免れ、貴重な情報を今に伝えてくれます。
宣明暦の時代†
- 元嘉暦、儀鳳暦の後も、大衍暦、五紀暦が伝わり、貞観四年(862)からは宣明暦が採用されました。
- 大衍暦は、唐に留学していた(のちの)吉備真備が天平七年(735)に持ち帰りました。その後、吉備真備は順調に出世を重ねていきましたが、藤原仲麻呂によって九州へ左遷されます。しかし、天平宝字七年(763)、孝謙上皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇の覇権争いのなか、大衍暦の採用が決定。翌八年、孝謙上皇が阿倍内親王と呼ばれていたころの師であった吉備真備は京に呼び戻され、藤原仲麻呂の乱平定に活躍しました。
- 五紀暦は、宝亀十一年(780)に遣唐使が持ち帰りましたが、学ぶものがおらず、しばらく放置されていました。その後、斉衡三年(856)、暦博士大春日朝臣真野麻呂が五紀暦による推算を進言し、大衍暦との併用が決まります。しかし、貞観元年(859)、渤海国の大使が宣明暦を献上すると、貞観三年(861)には宣明暦の採用が決定、短い命となりました。
- 宣明暦は本家中国では71年ほどで改暦されていますが、遣唐使の廃止(894)で中国との交流が途絶え、長い戦乱の時代に突入したこともあり、わが国では江戸時代初期までおよそ800年にわたって使い続けられることになります。
賀茂家(幸徳井家)と安倍家(土御門家)†
- 賀茂家は陰陽道の達人である忠行・保憲親子を輩出しています (国立国会図書館「今昔物語集」 )。
- 賀茂家が大衍暦を持ち帰った吉備真備の子孫という記述は多く見られます。しかし、『星学須知』p.13/17や『本朝通鑑続編15』p.30 (国立公文書館 ) によれば、賀茂家の祖は賀茂吉備麻呂という人であり、吉備真備とは同時代ではあるものの別人のようです。
- 保憲は暦道を子の光栄に、天文道を弟子の安倍晴明に伝えました。それ以後、賀茂家が暦道、安倍家が天文道を世襲し、陰陽頭や陰陽博士もこの両家から出るようになりました。
- 賀茂家は16世紀に在富が子の在種に殺害されて一端途絶え、しばらくの間暦道も安倍家が伝えるようになります。
- 一方、応仁二十六年(1419)に安倍友幸が賀茂家の傍系である定弘の養子となり、幸徳井を称していました。その子孫友景が元和年間(1618年ごろ)に陰陽頭となると、暦道はふたたび賀茂家(幸徳井家)のものになります。
- 安倍家も有脩のときに土御門を称するようになり、以後両方の名が使われています。
- それまでの暦は漢字で書かれており、朝廷貴族や地方役人にのみ配られるものでした。
- 具に暦注を付した暦なので具注暦、あるいは仮名暦に対して真名暦といいます。
- 行間に隙間が空けられた具注暦は間明き暦または間空き暦と呼ばれ、日記を書き込めるようになっていました。
- 国宝・ユネスコ記憶遺産にも登録されている藤原道長の『御堂関白記』(国立国会図書館 、文部科学省 ) はその代表例です。
- 当時の貴族の生活や考え方をうかがい知ることのできる貴重な資料となっています。
- これに対し、ひらがなやカタカナで書かれた暦を仮名暦といいます。
- いつごろ誕生したかははっきりしませんが、13世紀前半ごろに成立したとされる宇治拾遺物語にも巻五「かな暦あつらへたる事」で登場しています (国立国会図書館「宇治拾遺物語」 )。
- はじめは具注暦をかな書きしただけのものでしたが、しだいに独自の表記をとるように変化していきました。
- 仮名暦が印刷版行されるようになることで、庶民にも暦が使われるようになりました。
- 暦の需要が高まると、暦の版行を担う暦師が誕生します。
- やがて戦乱の時代に入り中央の統制が弱まると、諸国の暦師が自前で暦を刊行するようになりました。
- 同じ宣明暦とはいえ、バラバラに作暦していれば、計算結果の扱いや誤算などによって時折日付にズレが発生します。
- こうして、互いに少しずつ内容の異なる暦が流通するようになっていきました。
関連ページ†
内田正男, 日本で使われた古暦法(1), 東京天文台報, 第17巻, 第1冊, (1974).->
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Last-modified: 2024-10-07 (月) 18:55:34