暦Wiki
3. 徳川吉宗と西洋天文学、宝暦暦†
徳川吉宗†
- 八代将軍徳川吉宗が享保の改革によって幕府を再建する一方で、民に正しい時を授けるべく、天文暦学にも大きな関心を抱いていました*1。
- 自ら簡天儀・測午表儀などの実用的な観測装置を考案、城内吹上御庭などで天体を観測しています。
- 関孝和の弟子建部賢弘、皇和通暦などを著した中根元圭、後に天文方となる猪飼豊次郎らを召しては、和漢の暦法のみならず西洋暦法についても問いただしています。
- 当時、寛永の禁書令(寛永七年、1630)によってキリスト教関連の書籍輸入は禁止されていました。
- 西洋天文学を採り入れた中国の暦書はイエズス会宣教師たちによって書かれており、これらも禁止対象でした。
- 元圭は、和漢の暦法にはぬかりが多く、西洋暦法の伝来で明らかになったことも少なくない、天文暦学発展のためには禁書令を緩めることが必要であると訴え、これが享保五年(1720)の禁書緩和令につながります。
- 吉宗は西洋天文学を導入して改暦することを目指していました。
- しかし、天文方の渋川家は春海以降短命のものが続き既にその力を失っていたため、天経或問の訓点本や大略天学名目鈔などを著し西洋天文学に通じていた西川正休を天文方に任じて改暦にあたらせることにしました。
- 正休は延享四年五月より神田佐久間町の天文台で改暦御用測量を開始、寛延三年(1750)、宝暦元年(1751)と上京、土御門泰邦と改暦について協議を開始します。
- しかし、仙洞崩御による中断、渋川六蔵の死去などではかどらず、費用の件などで泰邦と対立、さらに吉宗が死去したこともあって宝暦二年(1752)に失脚、改暦は土御門家が主導することになります。
暦の微改訂†
- 天文方の力不足で吉宗の目論むような改暦はなされなかったものの、小さな改訂は行われていました。
- 享保十四年暦(1729)では、二十四節気の名称・時刻や昼夜の刻数・六つより六つまでの刻数を別段に記載するようになりました。
- 二十四節気は暦の要であり、耕作・種まきあるいは草木鳥獣に至るまで違えてはならないもの。これまでは下段に紛れてわかりづらかったが、名称や時刻を別段に掲げて一目でわかるように変更した。また、昼夜の刻数は昔はあったが断絶したもの。これも民間に知らしめるため、旧例に従って書き入れた。
- それまで名称が記載されていたのは二至二分と四立のみで、ほかは○月せつ/○月中のようになっていました。
- これに関する記録は院経師菊沢家の『暦道一式』享保十三年の条(p.190等)にも残っています。
- 元文五年暦(1740)では、暦面と世俗で日の区切りが異なることをふまえて、時刻の記載方法を変更しました。
- 世俗では明六つから明六つまでを1日としており、月食の記載もそれに倣っていた。しかし、正子以降は翌日なので今後は「翌」の字をつけて前日に掲載することとした。
- たとえば、元文五年の雨水は正月廿四日の丑五刻ですが、廿三日の後に「雨水 正月中 翌うしの五刻」のように記載されています。
宝暦暦とその失敗†
- 土御門泰邦は京都梅小路司天台での3年の観測を経て、宝暦四年(1754)十月十六日に暦法新書16冊を進奏、19日に宝暦暦=宝暦甲戌元暦と名づけられます。
- 宝暦五年の正式な改暦以前から、こっそり暦が変更されていました*2。
- 宝暦三年暦には、間違った補正値が貞享暦に加えられていました。
- 宝暦四年暦には、改暦宣言もないまま宝暦暦法が使われていました。
- この改暦により土御門家は編暦の実権を幕府から取り戻しましたが、当の土御門泰邦にも十分な実力はありませんでした。
- 三角関数や新しい観測機器の導入、彼岸の定義変更などは見られるものの、理論的には貞享暦となんら変わりないものでした。
- 渋川六蔵・西川正休(忠次郎)連名の文書にもあるように (国文学研究資料館 )、そもそも貞享暦に大きなずれが生じていたわけではなく、わずかな観測で急ごしらえした暦といえます。
- 吉宗の抱いた西洋天文学導入による改暦という理想は、後の時代にゆだねられることになります。
(西村遠里『授時解』p.616/625)
宝暦十三年九月朔 皆既日食†
- その結果、わずか10年後の宝暦十三年九月の日食を暦に記載しないという大失態をおかします。
- この件を追求された土御門泰邦、天文方、幕府はそれぞれ言い訳を並べ立てます *3。
- 泰邦は、3分以下の食は暦に載せないことになっている、毎年の暦作成は天文方の仕事であって、推算の誤りか改暦後日食がなかったことによるデータ不足かは天文方に聞かないと判断できないなどの言い訳を並べ立てます。
- 天文方は、日食観測が少なく推算法が定まっていないが改暦後にやればよいと土御門家に指示された、推算上は2分60秒なので掲載しなかったが推算と実際が2分半ほどずれることは暦法が完備するまではありうることなどと言い訳します。
- 幕府も、3分以下を載せないという決まりは追って定めるとしただけなのに天文方が確定ルールだと思い込んだ、とすべて天文方の責任にします。
- 一方で、地方の暦算家たちが4分以上の食を予測していました。
修正宝暦暦†
- この失敗を受け、明和元年(1764)には山路主住、佐々木文次郎(吉田秀長)を天文方に任じ、さらなる改暦を目指します。
- 明和二年より牛込天文台にて観測を開始しました。
- 3分以下の食も暦に記載するようになりました。
- これにより、京都では見えない日食や半影月食まで暦に記載されるようになりました。
- 明和五年暦の冒頭には言い訳のような説明が書かれています。
- 明和六年末に修正宝暦甲戌元暦を進呈、明和八年(1771)からは修正宝暦暦に改暦します。
- なお、天明二年(1782)には牛込天文台から浅草天文台(頒暦所御用屋敷)に移転、明治二年の廃止まで観測が続けられることになります。
関連ページ†
Last-modified: 2024-02-26 (月) 14:32:15