暦の日付は明治五年までは太陰太陽暦、明治6年からは太陽暦で設定されたが、日付以外にも二十四節気など季節を表す言葉も書き込まれ、実際の生活に用立てられてきた。それは現在も引き継がれ、身近なカレンダーの中に根付いている。
年中行事は頒暦では触れられないものが多いが、歳時記等で紹介されている。
月ごとの全国の行事・祭等が、多くの見開きの図とともに紹介されている。これは五月の「田植之圖」。
太陰太陽暦は月の満ち欠けをもとしており、年によって月日と季節にずれが生じるものだった。そのため、季節の目安となるように、二十四節気が日付の間に記されている。芒種から夏至の半ばまで、下段に「田うへよし」と幾度か記されている。夏至の途中には、七十二候の「はんけしやう」の記述もある。
本書は中国の七十二候を紹介したもの。七十二候は中国で作られたものと、貞享の改暦に際し渋川春海が日本独自の言葉を当てはめたものがある。これ以降は田植をしてはいけないとされる「
日本独自の暦注に、「八十八夜」と「二百十日」がある。「八十八夜」と「二百十日」は明暦二年(1656)の伊勢暦から記載され、貞享の改暦の際に除かれたものの、翌年からまた載せられるようになった。『壬癸録』には、伊勢の船長が奉行所に訴えたことにより、民の便になるから復活させたと記されている。
季節ごとの風俗や行事、動植物、二十四節気をはじめとした季語について、粱の宗懍による中国の歳時記『
ここでは七夕の説明と中秋の月見の図を示す。七夕については、その内容や由来を、『荊楚歳時記』の引用から始め、続いて明の
暦とあるが、実際はカレンダーではなく月ごとの草花、植物を記したものである。七月は、七夕に供える「星祭七草」として、蓮、桔梗、
参考文献:
『暦と時の事典』 内田正男著 雄山閣
『暦 (増補改訂版)』 渡邊敏夫著 恒星社