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貴重資料展示室

第38回常設展示:2008年3月23日〜2008年10月24日
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蔵書印にみる暦編纂の歴史 -幕府天文方と国立天文台-

古代より、暦の編纂は国家の重要な事業であり、天文台はその役を担ってきた。江戸時代には暦は主として幕府に設けられた天文方(てんもんかた)により計算されていた。現代においては国立天文台が暦の編纂作業を毎年行っている。国立天文台は2008年に20周年を迎え、東京大学理学部観象台時代から数えると130周年となる。これを機に国立天文台が所蔵する貴重書の中から江戸時代の天文方所蔵の資料に見られる蔵書印にスポットを当て、天文台と暦編纂の歴史を垣間見てみたい。

蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」印と『ラランデ暦書』

ラランデ暦書 蕃書調所印

フランスの天文学者で天体暦や航海暦の編集者でもあったラランド (1732-1807 Joseph Jerome Le Francais de Lalande) の著作である天文学の教科書 "Astronomie" 第2版 (1771) 全3冊は、ストラッペ (1741-1805 Arnoldus Bastiaan Strabbe) によりオランダ語に翻訳され、"Astronomia of Sterrekunde" (1773-1780) として日本に入ってきた。これを通称『ラランデ暦書』という。国立天文台が所蔵している『ラランデ暦書』(5巻本うち1巻欠) には「蕃書調所」印が捺されている。

蕃書調所は、幕府によって設立された洋学研究のための機関である。その成り立ちはそもそも文化八年(1811)に浅草天文台内に置かれた洋書翻訳のための局である蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)が、安政二年(1855)に独立して洋学所となった翌年、改名したものである。この機関は更に洋学調所、開成所と変遷をたどり、東京大学へと発展していった。

寛政暦を完成させた中心人物である高橋至時(たかはしよしとき) (1764-1804) は、『ラランデ暦書』を入手して抄訳に没頭したが完成せず、至時の子であり渋川家を継いだ渋川景佑(しぶかわかげすけ) (1787-1856?) に引き継がれた。『ラランデ暦書』の翻訳である『新巧暦書』を基に天保暦ができ、天保十五年(1844)暦から使用された。この暦は我が国最後の太陰太陽暦で、明治6年(1873)の太陽暦採用の前年まで使われた。

高橋景保(たかはしかげやす)の蔵書印

高橋景保 (1785-1829) は高橋至時の子で父の後を継いで天文方となった。渋川景佑の兄でもあり、シーボルト事件にかかわり獄死した非業の人物である。国立天文台の蔵書には4種類の蔵書印が確認できる。求己堂は景保の号である。下図は左から「求己文庫」黒印、「高橋蔵書」印、「求己堂印」、「求己堂図書印」。

求己文庫印 高橋蔵書 求己堂印 求己堂図書印

暦象考成と蔵書印

『暦象考成』は西洋天文学を採り入れた中国の暦書である。寛政七年(1795)この書を基に、天文方に登用された高橋至時によって寛政の改暦がなされた。寛政暦は寛政十年(1798)暦から使用されている。

国立天文台所蔵の『暦象考成』に種々の蔵書印をみることができる。

暦象考成 後編』巻九 写本

暦象考成後編 至時之印

高橋至時所蔵印である「至時之印」、高橋景保の蔵書であることを示す「高橋蔵書」印が捺されている。また、書入れは、至時によるものとして伝わっている。

暦象考成 上編 国字解』 篠原善富 文化十三年(1816)自序

暦象考成上編国字解1 暦象考成上編国字解2

景保の蔵書印2種、「求己文庫」、「求己堂印」と、渋川景佑の蔵書印である「明時館図書印」が捺されている。

暦象考成 上編 巻四』と「明時館図書印」、「九段坂測量所」印

暦象考成上編1 暦象考成上編2 九段坂測量所印

景佑が九段坂に観測所を拝領して、そこで観測したことによる。

明題疏(みんだいそ)

『明題疏』には至時の書き込みがあり、高橋蔵書、求己文庫、明時館図書印が捺されている。このことから、この書は至時、景保、景佑と受け継がれてきたことがわかる。

明題疏1 明題疏2 明題疏3

星学手簡』 高橋至時、間重富他筆 渋川景佑編 写本3冊

至時が幕府天文方に登用された後、共に寛政暦を作った間重富(はざましげとみ) (1756-1816) と、蘭学、暦書、観測や観測機器についての意見や近況報告を江戸大阪間でかわした。このときの往復書簡と、他に関係する数人の書簡を集めて、景佑が編集したものが『星学手簡』である。これは当時の天文学の水準を知るうえで貴重な文献である。国立天文台の星学手簡には、「明時館図書印」が捺されている。

星学手簡・表紙 星学手簡・本文 明時館図書印

(参考) 『寛政暦書 巻十九』 天保十五年(1844) / 『浅草鳥越堀田原辺絵図

浅草天文台では、西洋天文学を採り入れた「寛政暦法」が高橋至時らによって作られた。寛政暦の暦理をまとめた『寛政暦書』の巻十九には「測量台」として、当時の地図『浅草鳥越堀田原辺絵図』には「頒暦所御用ヤシキ」として記されている。その後、浅草天文台は幕府崩壊と同時に廃止になった。

測量台の図 浅草鳥越堀田原図
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