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貴重資料展示室

第45回常設展示:2011年10月21日〜2012年10月25日
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明治時代の天文観測

貞享の改暦(1684)から日本の暦の編製を担ってきた幕府天文方は、明治元年まで編暦事業のために必要な天文観測を続けてきたが、明治維新の動乱の中に解体され、その器物の多くが失われてしまった。その後明治政府に引き継がれた編暦事業においては、政府内の混乱を反映していくつもの変遷があった。

また天文観測では、明治初期にあった金星日面経過にあわせて欧米諸国の観測隊が日本を来訪し、実際にその機器にふれ、知識を習得する機会があった。それを受けて、江戸時代のように編暦を主目的としたものではなく、天文学のための観測の下地が作られていくことになる。

『明治十六年十月三十一日 太陽金環蝕の圖』

太陽金環蝕の圖 (番号:7984、マイクロなし)

事前に金環食を想像して描かれた錦絵。この金環食については、明治16年7月9日の官報第7号で海軍省から (国立国会図書館 [外部サイト])、同年10月12日の官報第89号で内務省から (国立国会図書館 [外部サイト]) 広報された。当日各地はほぼ曇天ではっきりと食を見られなかったようである。

2012年5月21日の金環日食は、この金環食以来の「金環食帯が本州を通る日食」である。

慶応四年子午線儀連測記』 山路天文方 慶応四年(1868)

子午線儀連測記1 子午線儀連測記2 (番号:6903、マイクロNo.2001)

慶応四年の正月一日から七月二十五日までの天文方の観測記録である。子午線儀を使い、天体の子午線通過を計測した。

子午線儀全圖『寛政暦書 巻十九』 天保十五年(1844)

子午線儀全圖 (番号:40、マイクロNo.28,29,30)

図の三角形に張った糸の面が南北の子午面に一致するように調整してあり、観測者はその下にある観測小屋の屋根の隙間から天体の子午線通過を測った。子午面に合わせるためには何夜か予備観測をして調整する必要がある。

子午線儀の担当は決められた天体が子午線通過するのを見て合図し、垂揺球儀 (振り子時計) の担当が球行数を記録、象限儀の担当が天体の南中高度を測り、その一組の値で意味のある天文観測となる。

明治五年壬申頒暦』 大学星学局 / 『明治六年太陽暦

明治五年壬申頒暦

明治五年(1872)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治五年太政官布告第337号、改暦ノ布告) では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治五年十二月三日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。

しかし急な変更は不便ということで、これまでの天保暦も併記された。その後太陽暦普及の妨げになるという理由で、明治8年と9年に文部省と内務省それぞれから廃止案が出されたこともあったが、併記は明治42年暦まで続けられた。

明治六年太陽暦 明治六年太陽暦

金星過日』 ダビッド・モルレー著 写本1冊

金星過日 金星過日 (番号:6904、マイクロNo.3002)

明治政府は西欧諸国の進んだ学問や技術を採り入れるため、海外の人員を登用した。明治五年(1872)南校ではフランス人レピシェを雇い入れ数学・天文学の教育にあたらせた。天文暦学とは関わりのない、純然たる天文学教育の始まりである。

明治7年(1874)12月9日、アジアで金星の日面経過が観測できるため、欧米各国は競って観測隊を派遣した。観測の目的は、地球上の離れた二地点で日面経過を観測することによって、地球から太陽までの距離の精度を上げることができるというハレーの提案を検証することである。なお、日面経過とは、内惑星である金星が太陽と地球の間に来て太陽−金星−地球が一直線に並ぶ非常にまれな天文現象で、地球からは金星が太陽の前面を横切るように見える。

この『金星過日』は、当時の文部省顧問であったアメリカ人教育者ダビッド・モルレーが、その解説を交えて日本で観測するアメリカ、フランス、メキシコ観測隊への協力要請を文部省に提出したものであり、その報告等も含んでいる。

なお、2012年6月6日にはふたたび日本で金星の日面経過を見ることができる。

『レプソルド子午儀観測野帳』 明治21年(1888)

レプソルド子午儀観測野帳1 レプソルド子午儀観測野帳2 レプソルド子午儀観測野帳3 レプソルド子午儀観測野帳4

表紙に「弐」「参(參)」と書かれているようであるが、「壱(壹)」は見つかっていない。「弐」の表紙内の扉に鉛筆書きで「千八百八十八年七月十七日ヨリ八月十四日迄」と見える。野帳のページの上には「TRANSIT OBSERVATIONS」と書かれている。観測星は β Librae と ν1 Bootis と読める。

レプソルド子午儀は「大子午儀」と呼ばれていた。レプソルド子午儀中心は大正7年(1918)9月19日文部省告示號外で、経度の基準点として採用されている。

(参考) 「レプソルド子午儀」 ドイツ ア・レプソルド・ウント・ゾーネ社製 (1880)

レプソルド子午儀1 レプソルド子午儀2

国立天文台にあるレプソルド子午儀が平成二十三年度 国の重要文化財に指定された。この子午儀は1880年にドイツで製作された口径13.5cmの望遠鏡で、明治14年(1881)に海軍省が購入、麻布台の海軍観象台で経度観測と時刻決定に使用された。その後、明治21年(1888)に内務省の編暦事務海軍観象台帝国大学天象台を統合する形で帝国大学東京天文台が麻布台で発足した際に、移管された。

参考文献:
『東京大学東京天文台の百年 1878-1978』 「東京天文台の百年」編集委員会編 東京大学出版会
『江戸の天文学者 星空を翔ける』 中村士著 技術評論社
『星の古記録』 斉藤国治 岩波書店
『明治16年(1833)10月31日の金環日食観測についての調査』 斉藤国治、篠沢志津代著 東京天文台報第15巻第3冊
『金星の日面経過について 特に明治7年(1784)12月9日 日本における観測についての調査』 前・後編 斉藤国治、篠沢志津代著 東京天文台報第16巻第1冊、第2冊

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