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海軍水路部と東京天文台†
海軍水路部と観象台†
- 海軍では明治四年七月二十八日(1871年09月12日)に水路局を設立、測量の基礎となる天体観測を実施するため、柳楢悦局長 (海洋情報部 ) を中心に観象台設立をめざしていました*1。
- 水路局(のち水路部)は現在の海上保安庁海洋情報部 にあたる部署で、海図作成のために測量は必須でした。
- 明治四年の設立を記念して、九月十二日は水路記念日となっています (海上保安庁 )。
- 明治五年四月二十四日 太政官布告130号 (国立国会図書館 ) により海軍省標竿 (現在の築地市場付近) の経度を東経139°45′25.05″=9時19分01.67秒としました。
- 明治五年十一月には芝区飯倉の戸沢邸と石井邸の一部を買い入れ、さしあたり観測できるだけの小規模施設を設立、これが海軍観象台の発端となります。
- 明治07年金星日面経過
- 明治五年八月米国政府から明治7年金星日面経過の観測申し入れがあると、柳局長はこれを好機ととらえ、依頼に応じると共に帯同して技術を習得すべきであると答申しました。
- その結果、アメリカ・フランス・メキシコから観測隊が来日し、最新の観測技術を間近で学ぶ絶好の機会となったのです。
- 経度はその差にしか意味がありませんから、経度の測定においては時刻を揃えることがきわめて重要です。
- 当時は経線儀=クロノメーターを運搬するしか手段がありませんでしたが、米国の観測隊は電信により時刻をそろえて経度差を測定する最新技術を導入していました。
- 後に米国水路部副長となるジョージ・ダビソン博士は、柳局長の依頼により米国海陸測量局長チットマンを東京に派遣、東京と長崎の経度差も測定しました。
- このときの基準点がいわゆるチットマン点と呼ばれるもので、東経139°44′57″という値を得ています。標竿の老朽化に伴い、明治15年10月にはこの値を基準にすることにしました (水路部沿革史 p.375, p.451)。
- また、ダビソン博士は観測技術や観測機器の購入方法を指導するなど、日本の天体観測技術・測量技術の近代化に大きく貢献しました。
- 参考資料
- 斉藤国治, 明治七年の金星日面経過について, 東京天文台報, 第16巻, 第1冊, (1972).
- 斉藤国治, 明治七年の金星日面経過について, 東京天文台報, 第16巻, 第2冊, (1973).
- ダビッド・モルレー, 金星過日.
- 水路寮, 金星試験顛末. (海洋情報部 )
- 海軍水路局はその後も人員教育や機器整備を進めつつ、明治10年には赤道儀を設置、明治11年には海外視察、明治10年から12年にかけて土地を買収、着々と発展していきました。
- 明治14年には米国海軍水路局員グリーンとデービスの経度測量に協力、チットマン点と長崎の経度差を測定します。
東京天文台設立に至るまで†
- 明治二年三月 浅草天文台は東京府に移管、まもなく撤去されることになり、十月 観測機器は開成学校*2に引き渡されました。
- 同年開成学校・昌平学校・医学校が統合されて大学校が成立、翌三年に天文暦道局(のち星学局)が置かれ、さらに翌四年には文部省へと変遷します。
- その間、天文台建設地として駿河台胸衝坂上・尾張藩邸跡・旧昌平校・旧本丸跡櫓台・天守台などさまざまな地が候補にあがりますが、なかなか決まりませんでした。
- 明治10年04月 東京開成学校*3と東京医学校が合併し東京大学が創立されると、明治11年02月26日に東京大学理学部観象台の設立が認められます (国立国会図書館 )。
- 一方、内務省地理局は編暦担当部署としてのみならず、地図作成・測量 (国土地理院 ) の基準としてやはり観象台建設を目指していました。
- 明治10年11月 赤坂葵町で観測を開始、明治14年06月には旧本丸天守台に測量台建設が認められます。
- しかし、この計画を聞いた海軍の柳水路局長は、海軍観象台と同じようなものを新設するのはムダであると猛反発、天守台には測量課事務所(のち内務省地理局観象台)が設置されました。
- さらに、明治15年05月 文部省から文部・内務・海軍の三者共同で天文台を設立しようとの申し入れを行ないます。
- 文部省は教育目的・海軍は実用目的、主務が異なるので協同しても効率があがらないなどの理由で柳水路局長はやはり反対、実現をみませんでした。
- また、重複を省くため、内務省地理局を廃止し、陸地の測量は陸軍に、海岸の測量は海軍に任せるよう主張、明治17年06月30日 内務省地理局の三角測量事業は陸軍参謀本部 (のちの国土地理院) に吸収されます (国立国会図書館 、国土地理院 、日本測量協会 )。
- ところが、明治21年に柳水路部長が引退すると事態は急変を迎えます。
- 同年6月 海軍観象台の事業のうち天象観測は文部省へ、気象観測は内務省へ (気象庁 )、内務省の暦書編纂も文部省へ移管されます。
- そして、海軍観象台のあった麻布区飯倉町の地に東京天文台 (現在の国立天文台) が誕生しました。
天体位置表と理科年表†
- 天文航法には天体の正確な位置を記した航海暦が必要になりますが、明治中期までは海軍でも民間でも英国暦を使用していました*4。
- 明治37年(1904)日露戦争が勃発すると航海暦が不足、外国の暦に頼る不便さを痛感します。
- 明治39年には航海暦編纂方取調委員会を組織、明治40年海軍航海年表が誕生しました。
- 英国版の翻訳+主要港の日月出没+潮汐
- 大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発すると英国暦の入手が困難となり、航海年表の編集が遅れることになりました。
- 有事に備え、外国暦に頼らず独自に暦を推算する計画が浮上、大正8年(1919)4月に編暦科が設置されます。
- 一方、東京天文台でも、三鷹移転を機に編暦課を拡張して航海暦および天体暦の編製をめざす計画*5がありました。
- 両者の競合の結果*6、
- 海軍水路部が本格的な天体暦推算を行うことになり、昭和18年(1943)の天体位置表発刊につながります。
- 東京天文台は小規模な市民暦を作ることになり、大正14年(1925)に理科年表が誕生 (理科年表オフィシャルサイト ) します。
- 「年表」というと歴史の年表を思い浮かべますが、海軍水路部で刊行していた航海暦も航海年表という名称であり、当時は暦・年鑑のような意味合いで「年表」を使っていたのかもしれません。
- 大正14年の第1冊には「この年表は一般理学の教育、研究および応用に便するため毎年発行するもので」とあり、当初から毎年刊行することを目指していたことがわかります。
- なお、時はめぐり、
関連ページ†
進士晃, 水路部を築いた人々, 天文月報 第64巻第11号 , (1971).->
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蛮書和解御用→洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→開成学校→大学南校->
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大学南校→第一大学区第一番中学→開成学校→東京開成学校->
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進士晃, 水路部編暦課の50年, 天文月報 第62巻第11号 , (1969).->
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河合章二郎, 帝国の天文台に就て, 天文月報 第12巻第9号 , (1919).->
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中村士, 理科年表の歴史, 理科年表オフィシャルサイト ->
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Last-modified: 2022-05-06 (金) 18:58:39