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貴重資料展示室

第54回常設展示:2016年10月21日〜2017年10月12日
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二十四節気と暦

暦は祭事、農作業などの目安として欠かせないものであり、季節とのずれが少なくなるよう改良されてきた。

太陰暦では月の満ち欠け周期29.5日をもとに1か月が決まり、12か月では約354日となる。これは地球の公転周期すなわち季節変化の周期である365.2422日より約11日短い。そのままでは暦と季節がずれてしまうので、中国や日本では二十四節気によって太陽の動きを考慮し、約3年に1回、より正確には19年に7回閏月を入れて補正する太陰太陽暦を使っていた。なお太陰とは月の意味である。

太陽暦でも、ユリウス暦では4年に1回閏日を入れて暦と季節をそろえていたが、しだいにずれが大きくなったため、今日使われているグレゴリオ暦では閏日を400年に97回として改良をしている。

諸国圖會

桃山遊宴の図 『諸国圖會(しょこくずえ) 年中行事大成』 速水春曉斎 文化三年(1806) 刊本4巻6冊

天保十二年(1841)伊勢暦

天保十二年の伊勢暦

伊勢暦は、1枚の版木に半年ずつ、2枚つなげて一年の暦としており、印刷した細長い紙を山谷交互に折り長方形にたたんだ「折暦」の体裁をとっている。伊勢神宮の御師(おし) (神職のひとつ) が全国を廻って正月に飾る御札とともに祓い箱に入れて届けた。配られた暦にはこの写真のように表紙が付けられて、金泥の装丁を施した豪華なものもあった。

天保十二年の伊勢暦を見ると、「伊勢度會(わたらい)郡山田 箕曲主水」「天保十二年かのとのうし乃寛政暦斗宿値年凡三百八十三日」他にその年の方位占いが書かれ、左下に月の大小がある。「正月小」に続いて日毎の暦注が29日まで続き、その後に「雨水正月中」次に「閏正月大」とあって閏正月が入ることがわかる。

二十四節気は1年を24等分して季節をあらわすと共に、閏月を入れる目安ともなっていた。奇数番目のものは「節」、偶数番目のものは「中」といい、その月に含まれる「中」で暦月を定める。たとえば正月中の「雨水」を含む月からこの月は正月で、翌月には「中」が含まれないので閏月となり、正月の後なので「閏正月」となる。

その年の日数は「凡○○○日」の部分にあり、凡は総てを数えてといった意である。今回取り上げた4年間では順に、天保十二年 383日 (閏正月)、天保十三年 354日、天保十四年 384日 (閏九月)、天保十五年 355日である。その後は354日、384日 (閏五月)、355日、354日、384日 (閏四月)、354日、354日、384日 (閏二月)、355日、384日 (閏七月)、354日、355日、384日 (閏五月)、354日、354日と続く。19年間(1章)で7回の閏月が入り、平均日数は1太陽年に近い365.21日となる。

『天保十三年(1842)月頭暦』 金沢の柱暦

金沢「柱暦」

「月頭暦」はその年の日数、各月の大小朔日の干支、暦注などを1枚にまとめ、金沢で出版された「柱暦」である。国立天文台の貴重書庫には何点か複数年の柱暦をまとめて綴ったものが収蔵されている。一枚の紙に印刷され家の柱などに貼り付けて使われたためか、このように上部が傷んで補修されたものが多い。

「天保十三年 みつのえとらのとし 凡三百五十四日」とあり、伊勢暦と同じように右に方位占いが書かれ、中央にこの年の月の大小と朔日の干支、二十四節気などがある。「せつ」は二十四節気の「節」であり、「中」は冬至のみが記載されている。中国では冬至が暦の起点とされ、南中時の太陽の高度がもっとも低くなり日影がもっとも長くなる日を観測した。

左には「日そく七分半 六月朔日さるとりの時 月そく三分 六月十五日いぬの時」と日月食の予報がある。

天保十四年(1843)三嶋暦

三嶋暦1 三嶋暦2 三嶋暦3

暦は古くは宮中で陰陽寮が編纂し天皇に献上された後、必要に応じ書写され官職や地方官庁に配られた。初めは漢字で書かれた具注暦であったが、仮名文字の発明で仮名暦が作られるようになり、さらに印刷された暦である「刷暦」が流通するようになった。

三嶋暦は、豆州賀茂郡 (今の静岡県三島市) 三嶋大社の暦師河合家によって作られていた。最も古い三嶋暦は永享九年(1437)のものが残されているが、記録にあるのは14世紀後半からで、明治初期まで出版が続けられていた。刷暦としては三嶋暦の方が広く知られていたため、刷暦全般のことを「みしま」と呼ぶこともあった。この三嶋暦は紙縒(こより)でとじられた「綴暦(とじごよみ)」である。

天保十四年は閏年で、九月のページでは九月廿九日の後に二十四節気九月中の「霜降」があり、後に「閏九月」が入っている。

天保十五年(1844)江戸暦

江戸暦1 江戸暦2

天保暦は天保十三年に案ができた日本で最後の太陰太陽暦である。西洋天文学を採り入れた先進的な暦であったが、1年の長さを等分した平気の二十四節気ではなく、実際の太陽の動きから決めた定気の二十四節気を採用したため、一つの気の長さが一定でなくなり、中気を2つ含む月ができたり、中気が含まれない月が複数できたりして、これまでの置閏法では破綻を生じることになった。

天保十五年きのえたつ天保壬寅元暦虚宿値年凡三百五十五日

なお、天保十五年は同年五月の江戸城火災などで十二月二日に改元されて弘化元年となった。このため、天保十六年暦というのも出されている。元号が変わっても、甲子(きのえね)から始まる六十干支は連続するので年次を認識する助けとなっている。

七十二候抄』 貞享三年(1686) 刊本5冊

七十二候

七十二候は二十四節気をさらに初候、次候、末候の三つに分けて約5日間の気候の変化を表したもので、中国の正光暦 (522) から記載されている。正光暦は黄河中流域の北魏 (386-534) で使われた暦であり、七十二候には日本の気候にそぐわない記述もある。貞享の改暦渋川春海がそれまでの中国の七十二候を日本の気候や動植物にあわせて改めており、たとえ同じ名称でも日本と中国では時期がずれているものも多い。また日本では五月節次候、中国では六月中初候の「腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)」など、あきらかに非科学的なものも含まれる。

図の獺祭は中国の七十二候にある正月中雨水の初候で、カワウソが捕った獲物を岸に並べる習性について、北極星に魚を供え祭っていると見立てている。これを元に文筆家などが多くの資料を広げている様子としても使われる。日本では正月中初候は「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」となっていて、「雨が降って土に湿りけを含む」という意味である。

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