暦研究の第一人者であった故岡田芳朗氏の御遺族の厚意でその膨大な資料を御寄贈いただいた。整理はまだまだ途上であるが、その一部はホームページ上で公開を始めたところである。
今回はその中から引札暦を取り上げる。
左は今回デジタル化した中で最も古い引札暦である。貞享の改暦(1684)以後、地方で独自の暦を作ることは禁止され、認可された暦師のみが暦を版行していた。略暦(必要な部分を抜粋した暦)である引札暦も例外ではなく、この嘉永五年暦、明治四年暦は京都の
明治に入っても暦の専売は暦師から弘暦者と名前を変えて続き、明治5年には頒暦商社(後に頒暦社)を設立して、明治6年暦を専売する手はずであった。
ところが明治政府は暦を版行・販売する頒暦商社に何の相談もなく、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とし、太陽暦を採用することを布告したのである。布告は11月9日であり、その時点ですでに太陰太陽暦による明治6年暦は販売されていたから、売れ残った暦とすでに売られた暦の買い戻し等で頒暦商社は甚大な損害を被ることになった。
太陽暦の明治6年暦は一枚物の略暦について許可を得れば誰でも製造販売ができた。当初は認可されると検印が押され、明治9年以降は左の明治15年暦のように印紙を貼付していた。
明治の改暦まで使われてきた太陰太陽暦(天保暦)は旧暦、それに対して太陽暦は新暦と呼ばれる。
政府は太陽暦への改暦に伴い、暦注に含まれる占いについては非科学的な迷信であるとして、明治6年の本暦・略本暦より除いた。
引札暦も改暦当初は新暦のみ記されて占いの記載はなかったようだが、明治15年に略暦が自由化されると、新旧暦を併記して方位、運勢占いを含むものが多くなった。
民間の祭事などは旧暦で行われることも多く、新暦だけでは不都合があった。
改暦以降、官製の暦である本暦には太陰暦、太陰
引札暦は大正に入っても新旧暦を併記した形が多く、旧暦については陰暦、中国暦、中華民国暦など様々な書き方がされている。
暦は一般に年が過ぎると用が無くなって捨てられてしまうため残っているものは多くない。
今回取り上げた引札暦は、寄贈いただいたもののほんの一部であるが、壁に貼った痕が残っていたり、調べてみると現在まで続いている店舗があったりと、それぞれに時代背景や生活の変化、流行などが垣間見えて興味は尽きない。
最後に、2014年に亡くなられた岡田芳朗氏の御冥福をお祈りすると共に、資料を御寄贈いただいた御遺族の厚意に感謝いたします。
参考文献:
『暦の大事典』 岡田芳朗 [ほか] 編. 朝倉書店 2014.7
『日本の暦』 岡田芳朗 著. 木耳社 1972.4
『暦と時の事典』 内田正男 著. 雄山閣 1986.5