貞享二年(1685)の貞享暦施行以後、暦は江戸幕府天文方の作るものに統一された。幕末までの間に暦法は
時代は明治に移り、鎖国が解かれて西洋諸国との交流が多くなると、太陰太陽暦である天保暦では何かと不便が生じるようになっていた。しかも、この暦では明治6年には閏月が入って1年が13か月となるため、月給制を採り入れていた明治政府にとっては1か月分多く給料を支払う必要に迫られた。そこで、明治五年十一月九日、同年十二月三日を明治6年1月1日として太陽暦を採用するというおふれを出し、これらの問題を一挙に解決することにしたのである。発表からわずか20日ほどでの改暦とはあまりにも急な話であり、大きな混乱を招いた。
明治維新で天文方が消滅した後、暦の編纂部署はめまぐるしく移り変わることになった。ようやく明治9年になって内務省に落ちついた後、最終的には明治21年に設立された東京天文台へ引き継がれた。一方、暦の出版についても紆余曲折はあったが、明治15年には内務省の管轄下にあった伊勢神宮が担当することになり、昭和20年の終戦までこの関係が続いた。
その後は、編纂・出版ともに東京天文台が担うことになり、国立天文台となった今日でも『暦象年表』として出版されている。