現在のカレンダーは太陽暦法で、明治6年(1873)以降使われているが、それ以前は太陰太陽暦が使われていた。太陽暦の1年の長さはほぼ一定であるが、太陰太陽暦の1年の長さは年によって353日から385日の間で変わっていた。江戸時代、貞享改暦の後は、暦は年々幕府天文方によって計算され、朝廷の陰陽寮に渡され暦注を施した。認可された地方の暦師に渡された暦は、刷り増しされ広められた。ここではその中の伊勢暦から、改暦された際の頒暦の暦首に書かれていた注釈を紹介する。国立天文台には貞享改暦の年の暦は所蔵されていないので、宝暦暦から以降を示す。貞享暦は貞享二年(1685)暦から宝暦四年(1754)暦まで使われた。
暦首は一般にはその年の暦注に始まるが、改暦の際にはその前に、改暦に関しての文言が書かれている。
宝暦暦は宝暦五年(1755)暦から明和七年(1770)暦まで使われた。暦冒頭の文は貞享暦との違いを強調しているが、暦注について書かれた部分を除き、翻刻すると
一.彼岸の中日は昼夜等分にして天地の気、均しき時なり。前暦の注する所是に違へり。故に今よりその誤りを糺し、是を附書す。よって前暦の彼岸と、春は七日進めて秋は三日進むものなり一.昼夜を分かつと世俗の時、取り惑い多し。よってひとたび翌の字を附書すといへどもなおその惑い解きがたし。故に夜半より前を今夜と記し、夜半より後を今暁と記すもの也
宝暦十三年(1763)の暦に、九月の部分日食が載せられていなかったにもかかわらず見えたことから、修正暦の作業が始まり、明和八年(1771)暦から、修正宝暦暦が使用された。暦冒頭の文言を示す。
宝暦の新暦しらべなる命をうけたまわり、ことしより後はしらべたる法数を用いて頒ち行ふものなり
寛政暦法は寛政十年(1798)暦から使用された。これは、寛政七年天文方に登用された
オランダ語原書から採り入れた西洋天文学による天保暦法は天保十五年(1844)暦から使用された。改暦の中心人物は渋川
暦首部分に「今まて
明治五年十二月三日を明治6年1月1日として、太陰太陽暦を太陽暦に変えた。明治6年暦太陽暦では、それまでの暦注を廃し、上段欄外に祝祭日を掲載している。しかし、改暦を宣言したのは十一月九日であり、すでに天保暦による暦が出回り始めた後だった。太陽略暦は明治7年(1874)を提示した。