貴重資料展示室
第31回常設展示:2004年10月23日〜2005年3月27日
高橋至時
2004年は寛政の改暦の立役者である高橋至時の没後200年にあたる。高橋至時は明和元年(1764)に大阪の下級武士の家に生まれた。天明七年(1787)、大阪で天文暦学を教えていた麻田剛立の門下に入り、同門の商人、間重富と共に天文暦学の研究に励んだ。その頃改暦を考えていた幕府により、江戸出府を命じられ、寛政七年(1795)至時は天文方、重富は頒暦所御用として、浅草天文台で改暦作業に従事することになった。
「寛政暦法」は西洋天文学を採り入れた中国の暦書『暦象考成 上、下、後編』をもとに考案された。五星 (惑星) は周天円の組合わせによったが、太陽、月は楕円運動を用いた画期的なものだった。しかし、至時はこの暦法に満足できず、享和三年(1803)から亡くなる享和四年(1804)の約半年間で、オランダ語天文書の『ラランデ暦書』の解読に励み、『ラランデ暦書管見』を著述した。この超人的な仕事が命を縮めたといわれる。41歳であった。
至時の指導で緯度の観測を始め、ついに精密な日本地図を完成させた伊能忠敬は、師の隣に眠ることを希望したので上野源空寺の高橋至時の隣に墓がある。
『増修消長法』 高橋至時著 寛政十年 稿本1冊
消長法とは、天文定数が時と共に変化するとして、暦計算に採り入れたものである。消長法は貞享暦でも用いられている。麻田剛立の考えた消長法は周期的に定数が変化するとした。至時はそれに検討を加え、増修消長法として表した。寛政暦法に、この消長法が採り入れられたが、後の天保暦法には使われていない。
「恒星世界の図」
「贈麻田翁」として書かれたこの一文は『増修消長法』に綴じられている。至時が西洋天文学をどのように理解していたかを示す文章である。恒星は太陽のように自ら光る、動かない天体であり、いっせいに東に動く (歳差のこと) のは地球の運動のせい、と考えていたところ、先日司馬江漢から衆星は太陽であるとの説が西洋書にあったと知らされ、大いに喜んだ。この西瓜を積み重ねたような図は、1つ1つの恒星が各々の天の中心にいて動かない様子を表わしており、数十万もの太陽からなる宇宙は「広大無辺成る事ニ御座候」と驚きを記している。
(参考) "An ORIGINAL THEORY or NEW HYPOTHESIS of the UNIVERSE" T. WRIGHT著 LONDON 1750 1冊
この本は英語版であり、「贈麻田翁」では、蘭書から図を写したとあるので、この本などを参考に書かれた蘭書をもとにした図ではないかと考えられる。
『ラランデ暦書訳述』 間重富著 自筆本6冊
至時が『ラランデ暦書』蘭訳本を解読して、『ラランデ暦書管見』を表したが、途中で亡くなったため、その後をついで、間重富、至時の息子の高橋景保、渋川景佑等が解読を続けた。
『暦象考成 後編』 巻八、九 写本
この二冊の写本は、高橋至時所蔵印である「高橋印」「至時印」が押されている。また、書き込みは、至時によるものとして伝わっている。『暦象考成 後編』は西洋天文学を採り入れた中国の暦書で、太陽と月については楕円運動を用いている。寛政の改暦の際に研究された。