古代より、暦の編纂は国家の重要な事業であり、天文台はその役を担ってきた。江戸時代には暦は主として幕府に設けられた
フランスの天文学者で天体暦や航海暦の編集者でもあったラランド (1732-1807 Joseph Jerome Le Francais de Lalande) の著作である天文学の教科書 "Astronomie" 第2版 (1771) 全3冊は、ストラッペ (1741-1805 Arnoldus Bastiaan Strabbe) によりオランダ語に翻訳され、"Astronomia of Sterrekunde" (1773-1780) として日本に入ってきた。これを通称『ラランデ暦書』という。国立天文台が所蔵している『ラランデ暦書』(5巻本うち1巻欠) には「蕃書調所」印が捺されている。
蕃書調所は、幕府によって設立された洋学研究のための機関である。その成り立ちはそもそも文化八年(1811)に浅草天文台内に置かれた洋書翻訳のための局である
寛政暦を完成させた中心人物である
高橋景保 (1785-1829) は高橋至時の子で父の後を継いで天文方となった。渋川景佑の兄でもあり、シーボルト事件にかかわり獄死した非業の人物である。国立天文台の蔵書には4種類の蔵書印が確認できる。求己堂は景保の号である。下図は左から「
『暦象考成』は西洋天文学を採り入れた中国の暦書である。寛政七年(1795)天文方に登用された高橋至時らによって、この書をもとにした寛政の改暦がなされた。寛政暦は寛政十年(1798)暦から使用されている。
国立天文台所蔵の『暦象考成』に種々の蔵書印をみることができる。
高橋至時所蔵印である「至時之印」、高橋景保の蔵書であることを示す「高橋蔵書」印が捺されている。また、書入れは、至時によるものとして伝わっている。
高橋景保の蔵書印「求己文庫」「求己堂印」と、渋川景佑の蔵書印である「明時館図書印」が捺されている。
渋川景佑の蔵書印である「明時館図書印」「九段坂測量所」が捺されている。後者は景佑が九段坂に観測所を拝領して、そこで観測したことによる。
『明題疏』には至時の書き込みがあり、「高橋蔵書」「求己文庫」「明時館図書印」が捺されている。このことから、この書は至時、景保、景佑と受け継がれてきたことがわかる。
高橋至時は幕府天文方に登用された後、共に寛政暦を作った
浅草天文台では、西洋天文学を採り入れた「寛政暦法」が高橋至時らによって作られた。寛政暦の暦理をまとめた『寛政暦書』の巻十九には「測量台」として、当時の地図『浅草鳥越堀田原図』には「頒暦所御用ヤシキ」として記されている。その後、浅草天文台は幕府崩壊と同時に廃止になった。