暦Wiki
天動説 (Geocentrism)†
- 地球は宇宙の中心に静止していて、太陽・月・惑星などすべての天体は、地球の周りを回るとする考え方を天動説といいます。
- 英語ではgeocentrism、すなわち地球中心説です。
- これに対し、地球を含め、すべての惑星が太陽の周りを回っているとする考え方を地動説といいます。
プトレマイオスの体系†
- 天動説の理論は2世紀ごろ、プトレマイオスの『アルマゲスト』によってほぼ完成しました。
- 16世紀に日本へ渡来したイエズス会宣教師たちは、日本人の信頼を勝ち取るためにヨーロッパの進んだ科学知識を活用していました。
- とくに日本にも渡来したペドロ・ゴメスは『天球論』を著し、天動説をはじめとする南蛮天文学を日本に伝えました。
- 豊臣秀吉による伴天連追放令や江戸幕府による禁教令・鎖国政策などでこの流れは途絶えてしまいますが、小林謙貞 (小林義信、樋口権右衛門とも) の『二儀略説』や、沢野忠庵 (クリストヴァン・フェレイラ) の『乾坤弁説/弁説南蛮運気書』など、キリスト教的な要素を切り落とす形で残りました。
- これらの図には、火・風(空気)・水・地(土)という4つの元素で世界が構成されるというアリストテレス〜スコラ哲学の影響が見られます。また、恒星天の外に、東西・南北歳差を担う歳差天や日周運動を担う宗動天、永久に動かない永静天などが加えられているものもあります。
ティコの体系†
- 地動説の正しさを直接的に証明するには、地球の公転運動によって生じる年周光行差や年周視差といった諸量を計測する必要があります。
- 16世紀の天文学者ティコ・ブラーエはどんなに精密な観測をしても視差が捉えられないことから地動説を認めず、独自の体系を打ち立てました。いわゆるティコの体系です。
- これは地球の周りを太陽が回り、その太陽の周りを惑星が回るというような、天動説と地動説を折衷したようなものになります。
- 地球から見た惑星の位置は結局、地球→太陽のベクトルと太陽→惑星のベクトルを合成したものになりますから、数学的にはこれでも問題ありません。
- 明末から清初にかけて中国へ渡来した宣教師たちにより編纂された『崇禎暦書』や、それを梅文鼎の孫である梅瑴成らが改訂した『暦象考成』では、ティコの体系が採用されています。
- 歌白泥 (コペルニクス) の名前は少し登場するものの、異端視されていた地動説を紹介することはほとんどありませんでした。
- 暦象考成後編ではケプラーの楕円運動を導入していますが、そこでさえも地動説は触れられていません。
- このため、それらをもとに西洋天文学を採り入れた寛政暦でも、ティコの体系が用いられることになりました。
- 寛政の改暦の立役者である高橋至時は『増修消長法』において地動説を紹介し(p.6)、太陽からの距離によって歳輪(周転円)の大きさを変えるとか全ての恒星が黄道に沿って一斉に回転する(歳差)とかいった不自然な話が、地球を動かすことで合理的に理解できるようになると支持しています。
- それでも、惑星にも楕円運動を摘要した『新修五星法』では、やはりティコの体系が用いられています。
- 惑星ごとに扱いの異なる周転円の複雑な組み合わせから、惑星の楕円運動+太陽の楕円運動の単純な組み合わせとなり、シンプルになってはいます。
- 年周光行差や年周視差がなければ数学的に両者はまったく同義であり、あえて地動説を持ち出す必要はありません。至時はそのことをよく理解し、自在に変換していたといえます。
関連ページ†
Last-modified: 2020-05-27 (水) 18:51:14