日食は、世界中のどこかの場所では毎年見られる現象であるが、見られる場所が限られているので、場所を限定した場合には珍しい現象になる。日食は天文現象の中では見てわかりやすい現象であり、急激に暗くなったり、温度が下がったりと、不気味さがともなうことで、古くから知られており、多くの記録が残っている。
一方、暦法の進歩にも日食は大きな意味を持っている。太陰太陽暦法では、月の運行と太陽の運行を組み合わせることによって、暦は作られた。日食は太陽・月・地球が一直線になった時、月が太陽を覆い隠す現象である。太陽と月の運行を十分な精度で予測できなければ、暦に書かれた日食の予報は外れることになる。江戸時代に用いられた貞享暦法、宝暦暦法、寛政暦法での日食についての記事を見てみよう。
渋川春海の作った貞享暦法は初めての日本暦法であった。その貞享暦巻二で、過去の日月食の記録と各種暦法による予測を付き合わせ、的中度合いを比較している。
元和二年(1616)八月の日食の予報について、その当時使われていた宣明暦では七分の日食が起こることになっているが、記録によると実際には日食はなかった。これに対し、中国の大統暦や授時暦、自分の作った貞享暦法の計算では日食は起こらないとして、貞享暦法の優秀さをアピールしている。
この当時用いられていたのは宝暦暦法であるが、その施行からわずか8年後の宝暦十三年(1763)九月、暦に記載されていない日食が見られた。この際、何人かのアマチュアが4分以上の部分日食を予報しており、『明和四年暦』にはこれに関するいいわけが載せられている。
今まて 頒行ふ所の暦 日月食三分以下は しるし来たらす こたひ 命ありて浅食といへとも ことことく記さしむ しかれとも新暦しらへ いまたおはらす よりて今まての数にならふのみ(いままでの暦では、3分以下の部分日月食は載せてこなかったが、命令があり、どんな日月食でも載せることになった。しかし、新しい暦法ができあがっていないので、旧来の方法で行なった)
その後、明和八年より宝暦暦を部分的に改修した修正宝暦暦が用いられるが、本格的な改暦は寛政十年(1798)からの寛政暦施行を待つことになる。
寛政暦法は、中国経由ではあったが西洋天文学を採り入れた暦法で、太陽と月に楕円運動理論を用い、精度を飛躍的に高めた。