鎖国が続いていた江戸後期、長崎出島を通して、西欧の書物は輸入されていた。八代将軍徳川吉宗による禁書の緩和により、より多くの学術書が輸入されるようになった。国立天文台には古いドイツ暦、英国暦が保存されており、ここでは1828年英国暦と、その翻訳としての『諳厄利亜航海暦』などを提示する。
『1828年英国暦』の訳である。この『諳厄利亜航海暦』の渋川景佑序によると、以前から幕府に願い出ていたとおり、航海暦を文政十年(1827)九月に見せていただけたとあり、1825年発行から割に早い段階で、日本に入ってきていたことがわかる。また、オランダ航海暦を参考に英国暦の数字を解釈し、この数字にゲレーンウィク観象台 (イギリス・グリニジ天文台) と江戸の里差 (経度差) 9時20分を加えると江戸の値になることなども記されている。
提示した部分には1月の特別な日, 月の朔弦望および惑星現象の日時が記されている。
『萬国普通暦』は日本の暦と英国暦やロシア暦を比較するために作られた。現在も使われているグレゴリオ暦法の英国暦に対して、ロシア暦はユリウス暦法である。上段は日本の暦法に従って計算した結果。中段は上段記載値から京都とグリニジ天文台との経度差9時3分43秒を引いた値で、英国暦と多少差がある。下段はロシア暦の日付。当時、日本の暦の子午線は京都における値を使用していた。『萬国普通暦』はその後も数年間発行されている。
『安政四年(1857)萬国普通暦』と同年の英国暦を提示した。日本では太陰太陽暦を使用していたので、安政四年正月一日からの1年間は、太陽暦を使用していた英国暦の1857年1月26日から1858年2月13日にあたる。当初英国暦はグリニジ天文台長だったマスケリンら個人の尽力により刊行されていたが、1832年にNautical Almanac Officeが設立、組織的な編纂体制が整った。そして、1834年英国暦からは天体暦としても見劣りしない内容に大幅拡充されている。
前にあげた年の七曜暦は所蔵していないため、少し古いが、形は同じ宝暦十三年(1763)の七曜暦を参考に示した。七曜暦は一般的な暦とは違い、七曜すなわち太陽・月・木星・火星・土星・金星・水星の位置を二十八宿 (赤道座標) 上で表した、惑星暦である。