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グリニジ王立天文台 (Royal Observatory Greenwich)†
- 歴史
- 1675年 設立 (Royal Observatory Greenwich; ROG)
- 1884年 国際子午線会議において、経度や時刻の基準=本初子午線に。
- 1948(〜1958)年 ハーストモンスー城に移転 (Royal Greenwich Observatory Herstmonceux; RGO)
- 1990年 ケンブリッジに移転 (Royal Greenwich Observatory Cambridge; RGO)
- 1998年 閉鎖
- 現在は Royal Museums Greenwich の一部となっています。
John Flamsteed (1646-1719)†
- 1670年 星食予報が転機に*1
- 病気で学校に行くことすら困難だったフラムスティードは独学で天文を学び、日食の観測や予報などに取り組んでいました。1669年、自身で計算した翌年の星食予報を王立学会長に送ると、学会誌に掲載され*2、一躍名を知られるようになったそうです。
- その後ケンブリッジ大学のJesus Collegeに入学、ニュートンらと交流を深めるようになりました。
- 1675年 グリニジ王立天文台設立
- スペインの無敵艦隊を打ち破り海洋大国となったイギリスでも、安全な航海のために海上での位置を正確に知る技術は大きな課題となっていました。そんな中、地球上の経度を正確に測る方法の一つとして、月と星の位置関係を使う方法が提案されます。
- これに対し、フラムスティードは当時の星表や暦では精度が不十分で実用にならないと指摘しました。
- そこで、国王チャールズ二世は、それらの精度を高めて経度を正確に測る方法を確立させることを目的にグリニジ王立天文台を設立、フラムスティードをその任にあたらせました。
- 初代台長 (1675-1719)
- 王立天文台とは言うものの、できたのは建物だけで観測機器も人員もいない状態でした。最初は支援者からの援助でそろえた装置を使って観測を始めたそうです。その後も要求すれど認められず、私財を投じて徐々に揃えていかねばなりませんでした。
- 当初は六分儀のような装置で恒星の相対間隔を測ることしかできませんでしたが、ようやく1689年に実用的な Mural Arc (望遠鏡と四分儀をくっつけたような装置) が完成、振り子時計とあわせ、恒星の絶対位置をこれまでにない精度で測れるようになりました。そして、それらをもとに太陽・月・惑星の位置も精密に測定していきます。
- 月の観測データはニュートンによる月の運動理論構築でも役立ちました。しかし、データのやり取りなどで生じた軋轢は徐々に両者の関係を悪化させ、ついにはニュートン派のハレーによる未完成な観測データの無断改変・無断出版という事態を招きます。
- 無断出版された Historiae coelestis libri duo は400部中300部が回収・焼却されました。
- フラムスティードはその後も訂正作業を続けますが、完成を見ることなく1719年に他界します。
- 最終的には、その遺志を継いだ夫人や助手たちの手によって、1725年に Historia Coelestis Britannica (大英恒星目録; 星表)、1729年に Atlas Coelestis (天球図譜; 星図) が刊行されました。
- フラムスティードには王室天文官(Astronomer Royal)という称号が与えられました。以後1971年まで、代々の台長がその称号を引き継ぐことになります。
- 月と星の位置関係から経度を正確に測る月距法は、第5代台長のマスケリンによる英国暦刊行で完成しました。
Edmund Halley (1656-1742)†
- 第2代台長 (1720-1742)
- 周期彗星(ハレー彗星)の発見。
James Bradley (1693-1762)†
- 第3代台長 (1742-1762)
- 光行差・章動の発見。
Nevil Maskelyne (1732-1811)†
- 第5代台長 (1765-1811)
- 英国暦の刊行開始。
関連ページ†
Last-modified: 2022-11-30 (水) 19:28:50