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時憲暦†
- 暦法:
- 選者:湯若望 (アダム・シャール)、戴進賢 (ケーグラー)、徐光啓
- 期間:清の順治二年(1645)〜清の滅亡(1911)までの267年間(康熙年間に一時中断あり)。前は大統暦、次は太陽暦 (グレゴリオ暦)。
- 定数:定朔、定気、破章法、歳差。
- 以下の定数は暦象考成後編によります。
- 1恒星年=(360°+51″(歳差))÷ 3548.3290897″(太陽毎日平行)=365.256707日
- 1太陽年=365.24233442日(周歳)
- 1恒星月=360÷ 47435.0234086″(太陰毎日平行) = 27.321584日
- 1朔望月=360÷(47435.0234086″(太陰毎日平行)−3548.3290897″(太陽毎日平行))= 29.530591日
- 1近点月=360÷(47435.0234086″(太陰毎日平行)− 401.070226″ (最高毎日平行))= 27.554562日
- 1交点月=360÷(47435.0234086″(太陰毎日平行)+ 190.63863″ (正交毎日平行))= 27.212220日
- 特徴
- 中国最後の太陰太陽暦法。
- 明末から清初にかけて多数のイエズス会宣教師が渡来、キリスト教とともに西洋科学の知識を中国へ伝えました。
- とくに、ドイツ人宣教師戴進賢 (ケーグラー) によってまとめられた暦象考成後編はケプラーの楕円運動理論にもとづいており、寛政暦の基礎理論となっています。
- 定気法の採用
- 清の滅亡後、1912年から太陽暦が採用されました。
- その後も農暦(农历)という名称で太陰太陽暦は続いており、旧正月にあたる春節はむしろ元旦より盛大に祝われています。
関連ページ†
- 参考文献
- 藪内清『中国の天文暦法』平凡社 (1969)
- 内田正男『暦と時の事典』雄山閣出版 (1986)
Last-modified: 2018-11-08 (木) 14:24:21