平成21年(2009)末、
なお、本文中で斜体の個所は「天地明察」から引用した登場人物たちによる言葉である。
「一つの暦法の寿命は、どれほど優れていようと、もって百年。八百年も続けて用いること自体がたわけておるわ」
貞観元年(859)、
写真右ページは季節による太陽の通り道の変化を表している。左ページは漏刻 (水時計) の図である。
「算術が変わる。算学の誕生だ。この大和の国の算学。和算だ」
「天地明察」で算術の天才として登場するのが関孝和である。中国歴代の暦法で当時最高とされていた授時暦について、孝和は春海が理解できなかった個所も自分のものにしていたと言われている。『発微算法』は延宝二年(1674)に出版された孝和の著作で、算術家の沢口一之が『古今算法記』に掲載した遺題 (答えを付けない出題で、他の数学者へ挑戦の意味合いがあった) 15問に解答を付したものである。孝和は解答のために独力で新たな術式を編み出し、日本独自の和算が発展する重要なきっかけを作った。
『発微算法演段諺解』は『発微算法』の解説書。著者の建部賢弘は孝和の弟子である。『〜演段諺解』には『発微算法』の内容も含まれており、写真右は孝和による解答、左が賢弘による解説である。
<第1問>円 (大円) の中に3つの円 (中円1つ、小円2つ) による空隙がある。大円より空隙の部分を除いた面積は120歩。中円の直径より小円の直径は5寸ほど短い。大・中・小の円の直径はどれだけか (1歩=1寸の2乗とする)。
「そなた、いったい幾つ、歴史に残るものをこしらえれば気が済む」「陰陽の鬼神呪術がなんぼのもんや。天文暦法と神代の奥義こそこの国の秘儀の根幹や」
『日本長暦』は神武天皇の時代から貞享二年(1685)まで、約2300年間の暦日を計算・復元したもので、日本では過去に例を見ない労作である。これによって往古の重要な祭祀の日を知ることができるようになり、朝廷や神社からも広く歓迎された。
長暦の見方は、例えば写真の一覧表では貞応元年(1222)正月が大の月で、その月の朔日 (一日) の
「何でも渡してやる。何か必要なものはあるか」「一つだけ、入手できぬものがあります。元は洋書です。題を、「天経或問」と言います」
『天経或問』は、中国の天文・自然科学書ながら西洋天文学にもとづいて書かれている。当時の日本は禁書令によってキリスト教に関する書物の輸入を制限していたが、宣教師の伝える知識をもとにした『天経或問』もその対象に含まれていたため、入手はきわめて困難であった。春海はそれまで授時暦をそのまま日本に導入しようと試みて失敗していたが、研究を重ねて授時暦を修正する形で日本独自の暦を作り上げ、大和暦と命名した。
禁書令は享保五年(1720)に八代将軍徳川吉宗によって緩和されたが、緩和の必要性を吉宗に上申した和算家の一人が建部賢弘といわれている。
「春海様の大和暦法は、必ず、帝のお気に召します。ともに改暦を果たしましょう」「正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」
天和三年、春海は大和暦の採用を正式に上奏した。上奏文の「請革暦表」には「正に知る、頒行する所の宣明暦、天に後る二日なるを。今天文に精しきは則ち陰陽頭安倍泰福、千古に
翌年の貞享元年(1684)、霊元天皇は大和暦採用の詔を発布した。大和暦は年号を冠して貞享暦と命名され、貞享二年から宝暦四年(1754)まで約70年にわたって使用された。
「天地明察」には登場しないが、春海の自筆による貴重な資料であるため掲載する。七曜暦は、太陽、月、水星、火星、金星、木星、土星の位置を二十八宿 (赤道座標) で表した、惑星暦である。
参考文献:
『近世日本数学史』 佐藤賢一著 東京大学出版会
『江戸の天文学者 星空を翔ける』 中村士著 技術評論社
『暦の語る日本の歴史』 内田正男著 そしえて