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『春秋述暦』は、中国の春秋時代(紀元前770-403)の長暦であり、中国の魯国について書かれた歴史書『春秋』に注釈をつけた書『春秋左氏伝』の記事から、当時の暦日を推算して242年間をまとめている。渋川春海 (安井算哲) はこの後も『春秋杜暦考』(1670)、『書詩禮暦考』(1671) を著し、その後日本に関しても同様に研究を進めて、『日本書紀暦考』(1676ごろ)、『古今交蝕考』(同前)、『日本長暦』(1680) などをまとめている。松田順承 (生没年不詳) は、幼少の頃から天文に通じていた春海が、十代のころ暦学について学んだ師である。
この図には年の干支と月の大小、朔日の干支が書かれていて、国立天文台所蔵のものは後年の研究者の付箋や、書き込みが随所にある。
本書は安藤有益 (1624-1708 会津の算学者) による宣明暦の解説書である。長慶宣明暦という書名は、この暦が中国唐王朝の長慶二年(822)から施行されたことによる。この書には二十四節気、土用、日食・月食の求め方や、暦計算の草稿である
宣明暦の作者は徐昻で、これまで使われた暦に比べて食の予報に進歩が見られ、中国では71年間使われた。日本には渤海国大使によって伝わり、それまで使われていた
『授時暦経俗解』は、中根元圭 (1662-1733) が著した授時暦の解説書である。中根元圭は近江 (今の滋賀県) の人で、暦学、数学に詳しく、多くの著作があり、門人を輩出した。また、八代将軍徳川吉宗に暦学の進歩を妨げるとして、過度の洋書の禁をゆるめるように進言したといわれる。
授時暦は、元王朝 (1271-1368) で王恂、許衡、郭守敬らによって作られ、1281年に施行された暦である。そのうち郭守敬はすぐれた新しい機器を作って観測精度を上げたといわれている。明の大統暦は授時暦から消長法を除いただけものであり、両者あわせて364年、授時暦は中国暦法の中で最も長い間使われたことになる。
国立天文台所蔵の授時暦に関する初期の本として、中国本を寛文十二年(1672)に和刻した『元史授時暦儀・経』、翌年刊行の小川
『貞享暦議』は春海が大和暦として上奏した暦について、改暦の意義や、その詳しい暦法を記した書である。
図中に出てくる、岡野井玄貞 (生没年不詳) は、本業は江戸の医師で暦学に詳しく、春海にとっては授時暦の師である。また、安倍
この図の渾天儀は地平環の直径が約72cmで、北辰とある方向に天の北極が来るように設置して、玉衡を通して星を覗き、天緯環・天経環の値を読み星の位置を観測した。現在残された観測用の渾天儀は数が少なく、ほとんどは星の動きを解説するための模型として作られたものである。
また、春海は太陽の南中時における「表」の影の長さを測定し、冬至や夏至の時刻を調べた。この図の「表」は鉄製で高さ八尺(約2.4m)、計測する目盛の面は一丈四尺(約4.2m)とあり、京都の梅小路での観測に用いられたものである。二寸×四寸(約6cm×12cm)の銅板に穴を開けた「景符」を用いると、「表」の影を鮮明にすることができる。
参考文献:
『暦と時の事典』 内田正男著 雄山閣
『日本の暦』 渡邊敏夫著 雄山閣
『日本暦学史』 佐藤政次編著 駿河台出版社