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三正論†
- 中国の古代王朝では、夏の時代は寅の月、殷の時代は丑の月、周の時代には子の月を正月とした、とする説です。
- 夏正=建寅正月=冬至の翌々月=立春正月
- 殷正=建丑正月=冬至の翌月
- 周正=建子正月=冬至月
- 三正が実際に行なわれたかは不明ですが、漢の太初暦では夏正に復帰することで王朝の正当性を示しました。
- 秦の顓頊暦では建亥正月=冬至の前月を正月としており、漢の初期もこれを用いていました。
- 太初暦以降は基本的に夏正が続きますが、時折ほかが使われることもありました。
- 前漢と後漢の間、新の時代には殷正が行なわれました(西暦9〜23年)。
- 魏の景初改暦では殷正が行なわれました(西暦237〜239年)。
- 唐の武后の時代には周正が行なわれました(西暦690〜700年)。
- 唐の粛宗の時代にも周正が行なわれたそうです(西暦761年)。
- 子・丑・寅は、夕方ごろに北斗七星の柄が指す方角を表わす十二支のことです。
- 北の空なので少し混乱しますが、方角は天の北極に対して下 (北) が子、上 (南) が午、反時計回りに数えます。
- 柄(尾)が子の方角を指していれば、子に建す(おざす)月ということで建子月と呼びます。
- 同じ時刻に見る北斗七星の向きは、季節の星座と同様に回転し、1年たつと元に戻ります。
- しかし、たとえ同じ季節であっても長い年月がたてば、歳差のために向きは変わっていきます。これが三正論の天文学的意味といえます。
- 一方、柄の指す方角は厳密に測れるものではなく、季節は二十四節気で定義する方が正確でしょう。
- つまり、夏正が続いたのは、1年や季節は二十四節気で定め、各月は正月を寅の月に固定して干支で連続的に呼ぶようになったという合理的な変化といえます。
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Last-modified: 2016-11-30 (水) 11:23:59