2010年本屋大賞を受賞した冲方丁著の小説「天地明察」は、初めて日本独自の暦を作った
それまで朝廷の陰陽寮で使われていたのは800年も前に中国から輸入した宣明暦であるが、江戸時代になり平和が訪れると暦法に関する研究が盛んに行なわれ、暦法を改めようという機運が高まっていった。春海はこれに代わり、中国の元で使われていた授時暦をもとに、経度差 (里差) を考慮するなど日本に合わせて修正し、貞享の改暦(1684)を成し遂げた。その功で初代天文方に任ぜられた。
渋川春海は、過去の暦日を調査し『日本長暦』を著したが、その過程で作られた『日本書紀暦考』とこの『古今交蝕考』は一体をなすものである。これまで使われてきた宣明暦と貞享暦で日月食を予測し、古くは推古天皇三十六年(628)からの記録と比較した。延宝四年(1676)ごろの著作とされるが、国立天文台所蔵のものは貞享二年(1685)までの改訂版となっている。
太陰太陽暦では約3年に1回、うるう月を入れて1年の長さと季節 (太陽の動き) のずれを調整するが、その規則は簡単ではないので、今年は何か月なのか、うるう月が入る年ならば何月の後に入るのか暦を見るまでわからなかった。それらの暦の情報は長い年月が経つと失われることもあり、すると古い暦を遡ることは難しくなってしまう。
『日本長暦』は日本の暦日を計算により復元した、これまでに類を見ない書物で、歴史的な物事を調査するために大変有用であった。その内容は長く参照されて、江戸中期に出された『皇和通暦』中根元圭 (1662-1733 暦学者) や、明治13年(1880)に内務省地理局が編纂した『三正綜覧』にも影響を与えている。
安藤有益 (1624-1708 会津の算学者) によって著された宣明暦の解説書で、7分冊の刊本である。長慶宣明暦の名は、この暦が中国唐王朝の長慶二年(822)に施行されたことに由来する。二十四節気、土用、日食、月食の求め方に加え、暦計算の草稿である
宣明暦では1年の長さ「章歳」を3068055分、1日の長さを8400分としているから、宣明暦の1年の日数は 3068055 ÷ 8400 ≒ 365.2446日 となる。これを1太陽年の365.2422日と比較すれば、800年間では (365.244643 − 365.2422) × 800 ≒ 2、すなわち約2日分のずれが生じることになる。
宣明暦は中国の唐で長慶二年(822)から71年間使われた暦で、日本には渤海国大使によってもたらされ、それまでの
この『暦家秘道私記』は、賀茂家の秘本として、日月食の計算法などが書き写して伝えられたもので、朱で書き込みがあり、巻末に賀茂在富の署名がある。賀茂家は在富の代で一時断絶したため、安倍家が暦博士と天文博士を兼任した。その後、安倍家の子孫、
谷秦山 (1663-1718 土佐の儒学者、神道家) は、17歳で京都に出て山崎闇齋に儒学、神道を学び、その後同じ闇齋の弟子であった春海より手紙によって天文、暦、神道などの教えを受けた。新蘆とは春海の号、面命とは会って聞いたそのままを記録したといった意味で、これまで書状でのみ知っていた春海に実際に会って、素朴な老人で驚いたとの感想や、天文、暦など教えを受けたひと月の滞在中に見た江戸の様子なども書かれている。
国立天文台の所蔵本は明治に岸上操編『少年必読日本文庫』 (全12巻、新蘆面命は第4編に収録) の底本となったもので、文庫では内藤
この『天文成象』は、渋川春海がまとめた『天文瓊統』を改訂し、息子の昔尹の名で出された星図である。ここでは天の北極付近の図と赤道付近の星を描いた図の一部を示す。中国では赤道を基準として二十八宿により領域を区分していた。二十八宿のうち、胃、
参考文献:
『少年必読日本文庫 第四編』 岸上操編 博文館
『日本暦学史』 佐藤政次編著 駿河台出版社
『暦と時の事典』 内田正男著 雄山閣
『日本の暦』 渡邊敏夫著 雄山閣