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宣明暦 (せんみょうれき)†
- 暦法:唐書巻三十上 志第二十上 暦六上
- 選者:徐昻
- 期間:
- 中国では唐の長慶二年(822)〜景福元年(892)の71年間。前は観象暦、次は崇玄暦。
- 日本では貞観四年(862)〜貞享元年(1684)の823年間。前は大衍暦と五紀暦の併用期間、次は貞享暦。
- 定数:定朔、平気、破章法、歳差。
- 1恒星年=920446199(象数)÷ 8400(統法)÷ 300=365.25643日
- 1太陽年=3068055(章歳)÷ 8400(統法)=365.24464日
- 1朔望月= 248057(章月)÷ 8400(統法)=29.530595日
- 1近点月= 27 + (4658 + 19 / 100)÷ 8400=27.554546日 (暦周)
- 1交点月= 27 + (1782 + 6512 / 10000)÷ 8400=27.212220日 (終日)
- 特徴
- 暦の伝来から宣明暦まで
- 日本では823年の長きにわたって使用されました。
- 太陽年は (365.24464 - 365.2422) × 800 ≒ 2、すなわち800年使い続けると2日ほどのずれとなります。渋川春海が「宣明暦、天に後る二日なる」と述べているのはこの点です。
- なお、ユリウス暦を800年使い続ければ (365.25 - 365.2422) × 800 ≒ 6、すなわち6日のずれになります。
- 日食推算において、月の視差に相当する補正を改善しました。
藤原道長の望月†
- 藤原道長の「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」は、寛仁二年十月十六日(1018年11月26日)の宴で詠まれたそうです。
- 寛仁二年十月の朔と望の時刻は以下の通りです。
- 宣明暦も、里差(経度差) 7刻を加味すれば、現代暦に近い時刻となります。
- 表値からは、望は十七日朝で、十六日に昇る月が望に近いように思えます。
- ところが、上記史料などによれば、朔は翌11日となっていました。
- 際どいですが、進朔には該当しません。
- 大の月が4回続く四大を回避するためと考えられます。
- その結果、望は十六日朝となり、宴で眺めている月も十六夜の月となりました。
- なお、望=天文学的な意味での満月の月齢は大きく変化するものであり、十六夜か十七夜かで決まるわけではありません。
1018年11月 | 現代暦 | 宣明暦 | 寛仁二年十月 |
朔 | 10日 19時ごろ | 10日 18時ごろ | 一日?⇒ 翌11日が一日 |
望 | 26日 07時ごろ | 26日 05時ごろ | 十七日朝?⇒ 十六日朝 |
- 『御堂関白記』のベースとなっている具注暦には「望」の記載が見られます (国立国会図書館 )。
- 当日の内容は未確認ですが、この日は望月=天文学的な意味での満月で欠けていない、と認識することはできただろうと思われます。
- 暦に望の時刻は記載されていないので、朝沈む月と夜昇る月のどちらが近いかまでは、別途上記のような情報を得ない限り、わからなかったはずです。
関連ページ†
- 貴重資料展示室
- 参考文献
- 内田正男『日本暦日原典』雄山閣 (1975)
- 藪内清『中国の天文暦法』平凡社 (1969)
Last-modified: 2024-11-20 (水) 19:14:07