文明が発達し、人間が定住して農業をするようになると、繰り返す季節の中で効率の良い耕作の時期などを記録して、後の世に伝える方法として暦が考案された。ひと月は最も身近な天体である月の満ち欠けの周期を使って、1日と1年の間の単位として自然に使われるようになったと考えられる。長い間に季節とのずれを大きくしないように工夫された暦が、太陰太陽暦として世界各地で使われた。
日本では明治6年太陽暦に改暦されるまで、太陰太陽暦が使われていた。それで太陽暦を新暦、それ以前の暦を旧暦という言い方をすることもある。
宣明暦法は中国から渤海国大使により伝わり、日本では800年以上にわたって使われた、最も使用期間の長い太陰太陽暦である。
中国の太陰太陽暦は月の満ち欠けからひと月の長さを決め、太陽の位置を示す二十四節気のうち中気を使って、正月から十二月までを配当することで、季節に合わせた。しかし、こうして決めた十二か月の長さは354日で、太陽の動きで決まる1年と比べて約11日短いので、中気の入らない月によって約3年に1度閏月を入れ合わせていた。
この本は、当時では珍しい3色刷で、二十四節気や七十二候の説明から始まり、中国の暦では一年の基準となる冬至の求め方など、宣明暦法について書かれている。
『崇禎暦書』は、中国明朝の末期に西洋天文学を採り入れた改暦を目指して、イエズス会宣教師らにより編纂された暦書である。清になって膨大な『崇禎暦書』から、その摘要が『崇禎暦書暦引』としてまとめられた。
ここで挙げた本は、日本で渋川景佑が『崇禎暦書暦引』の内容を図で解説したものである。多禄某はトレミー (プトレマイオス)、歌白泥はコペルニクスのこと。後者の図が地動説でなく天動説なのは、『崇禎暦書 (五緯暦指)』の記述に端を発する。地動説はキリスト教の教義に反するとされており、イエズス会宣教師たちが詳しく説明しなかった等の事情もあろう。
この図は閏月の説明がされている節である。下から十月、十一月、十二月となっていて見難いが、太陽の黄経30°毎に中気を配し、冬至を含む月は十一月、大寒を含む月は十二月、雨水を含む月は正月とする。左のように冬至と大寒の間に中気を含まない月がきた場合に、これを閏月として、例のように十一月の後であれば、閏十一月とした。
本木良永 (1735-1794) は長崎の通詞 (通訳) で、オランダ語に通じていた。中国でイエズス会宣教師によって翻訳された書物は異端とされていた地動説にはほとんど触れられていないが、本木は直接オランダの書物から知識を得ることが出来る立場にあったため、『阿蘭陀地球説(和蘭地球図説)』や『天地二球用法』で我が国に初めてコペルニクスの地動説を紹介することになった。
『太陽窮理了解説』はイギリスで出版されたジョージ・アダムスの天文書のオランダ語版を和訳したものである。この本で地動説やケプラーの惑星の楕円運動はすでに自明のものとして採り入れられている。西洋天文学は日本の暦にも大きな影響を与えており、『暦象考成 後編』をもとにした寛政暦や、『ラランデ暦書』をもとにした天保暦と、西洋の天文学を導入した新しい暦が作られていった。
日本でも、月を祭ったり、季節の中で宴を催したり、鑑賞したりする習慣は古くからあった。しかし、いつも同じ面を見せている月の模様をうさぎの餅つきに見立てるような伝承はあっても、月自体を天体として観察した記録は、江戸時代に海外から望遠鏡が入ってからのようである。
岩橋善兵衛 (1756-1811 大阪貝塚の元眼鏡職人) は、西洋の望遠鏡を元に自身で作った望遠鏡を「窺天鏡」と名付け、これで観測した天体の図を自著である天文学の入門書『平天儀図解』に載せている。『平天儀図解』には、地球を中心に月が、次に内惑星の水星、金星が周りを回っている太陽が来て、その外に惑星の火星、木星、土星と続く、天動説の宋天図がある。
当時暦を作るにあたっては、天動説でも地動説でも大きな問題は無く、いかに実際の月と太陽の動きに近いモデル(暦法)を作ることができるかが重要であった。
朏とは月が出る、すなわち朔(新月)を過ぎて初めて月が見えるようになる三日月のことを表わす。この朏暦は、仙台藩の高橋淵黙 (1821-1870 元貞とも) が作った安政七年(1860) の暦で、その月の大小だけでなく、三日の干支、暮六ツ時の月の高度方位と、三日月の光っている部分が立っているか寝ているかが描かれている。
右記ス所ハ毎月初三日ノ暮六ツ時見ル所ノ月光多少ノ分数及ヒ月光形象ノ向フ斜直ト月ノ見ユル方位ト月ノ地平ヨリ昇ル高度ナリ
参考文献:
『日本の暦と和算』 中村士著 青春出版社
『中国の天文暦法』 藪内清著 平凡社
『暦の科学』 片山真人著 ベレ出版